第五幕 「希望の春」
なかなか寝つくことができず、鶯丸はむくりと起き上がった。
刻の流れが緩やかな夜だった。壁に掛けた時計の秒針の音がやけに大きく響き、無意識に心を急き立てる。鶯丸は曖昧な視界を慣らすように、二、三度瞬きをした。
喉が酷く乾いていた。溜息をつき、身体を起こす。布団から身を乗り出して側にある文机に手を伸ばし、水差しを取った。湯呑みにとぽとぽと水を注ぐと、隣でもぞもぞと温かいものが動いた。
「ん……」
「お嬢も飲むか」
「うん……」
彼の手から湯呑みを受け取り、彼女はのろのろと起き上がった。小さく「ありがとう」と呟き、そっとそれに口づける。ごくりと飲み下し動く喉元を見ていた鶯丸は、彼女の赤く腫れた目を見逃さなかった。彼女も眠れないのだろう。鶯丸はそっと彼女の身体を正面から抱き寄せ、その頭に顎を乗せた。
過去への長い旅を終えたばかりだ。帰還後すぐに布団に入ったものの、どうにも興奮が冷めやらない。
「……やはり、辞めるのか」
月見障子から差し込む月明かりが白く畳に落ちている。それをぼんやりと眺めながら、鶯丸はぽつりと呟いた。
「……うん」
なにを、とは言わなかったが、察したのだろう。彼女は力強く頷き、そっと鶯丸の背中に手を伸ばした。
「身寄りもなにもない私が、唯一だと思えたのはこの本丸だよ。ずっと審神者として生きてきたから、それしかないんだ」
変えられそうにない彼女の決意を肌で感じ、鶯丸は抱きすくめる腕に力を込める。今すぐに居なくなるものではないとわかっていながらも、消えてしまうのではないかという不安がつきまとい、離れない。
苦しいよ、と苦笑いしながら、彼女はそっと鶯丸の髪に触れた。ふわふわとした鶸萌葱色の髪の毛を指に絡ませ、前髪を掻き分ける。
「歪んだ歴史を築く要因になってしまったのはショックだけれど、お父さんからもらった命は大事にしたい。でも、私の霊力は残り少ない」
彼を捕まえる彼女の瞳は、夢で見た、彼のかつての主の瞳と同じ輝きを呈している。困ったように眉をハの字にして笑う彼女に、鶯丸は息が詰まりそうだった。
「不思議だね。自分自身の霊力もちゃんとあったはずなのに、あの……ガゼボで自分の過去を知った日から、どうやって霊力を高めたらいいのか、わからなくなってしまったの」
いつか鶯丸がそうしたように、彼女はこつりと彼の額に自身のそれをぶつけた。
「だから、今の私にできることは審神者としての任務を全うすることだけ。――それは、今の私の所持刀剣たちに霊力をありったけ注いで可愛がって、引き継ぎ先の審神者に渡して役立ててもらうこと」
腕の中で微笑む彼女は、過去を知ったときの、今にも消えてしまいそうなほどに弱々しい姿ではなかった。
真実を知り、父親の言葉を聞き、過去と自分自身に向き合い――出した結論は、審神者として生き抜くこと。確固たる決意が表れた声は凜として、鶯丸の心を楔で打ちつける。それは、彼女と共に在ることに喜びを見出しはじめた鶯丸にとって、限りなく絶望に近い言葉だった。
「うぐさん。私からの最後のお願い」
彼女は鶯丸から体を離すと、彼の両手をそっと掴んだ。
「うぐさんには、私が居なくなるまでずっと側にいてほしいの」
部屋に落ちる月明かりが照らす彼女は、至極穏やかな笑みを浮かべていた。
「俺に、お嬢の最後の一振りになれと?」
彼女は曖昧に微笑んだままで、鶯丸の問いには答えない。鶯丸の脳裏に、過去で見た明石の表情が蘇る。主の最後の一振りになれる。頷いた彼は、満ち足りた顔をしていた。今でも鶯丸は心の片隅で思っている。「自分もかつての主の最期に花を添えられたらよかったのに」と。
しかし、今はどうだ。彼女の最後の一振りになれるとわかっていても、嬉しさなど微塵もない。言いようのない虚しさと寂しさだけが、空っぽの心をじわじわと浸食する。
違う。彼女の最後の一振りになりたいわけではない。ただ、少し。もう少しだけ、彼女と共に生きる時間が欲しいのだ。
鶯丸は彼女の頬を両手で挟み、顔を持ち上げた。断りもなく、彼女の唇を奪う。
「ん……」
これが彼の愛情表現なのだと知っている彼女は、抵抗をしなかった。そっと彼の肩に手を添え、応えるように身体を委ねる。
「……」
「っ、」
薄く目を開けた鶯丸は少しだけ唇を離し、角度を変え、再び深く包むように啄んだ。びくりと震えた彼女を逃がさないよう、首筋、そしてうなじへと手を這わせる。
少し身体を固くした、彼女が愛おしい。
彼は強く目を瞑り、強引に口づけた。驚き戸惑う彼女の唇をこじ開けて舌先をねじ込み、柔らかい口内を弄る。
「ん、ぅ……」
逃げる彼女の舌先を捕らえて絡め取る。己の舌先を口内に擦りつけては、熱く甘い彼女のそれを強く吸う。彼女の口端から、どちらのものともつかない唾液がたらりと伝い、零れ落ちた。
「……んっ、ぁ、は……っ」
頼む。俺の前から消えないでくれ。
切なく胸を締めつける苦しさが、彼の身体から喉を通り、舌先へと集まってゆく。
そのとき、彼女は突然目を見開いた。
「や、だ……やめて、うぐさん……っ」
首を大きく振り唇を離すと、いやいやと顔を背けようとする。そんな抵抗も空しく、鶯丸は彼女の手首を掴むと、布団へ押し倒した。
逃げ場をなくした彼女の首筋へ唇を落とす。男女の対格差を考えれば、どちらの方が力があるかなどすぐにわかる。ましてや、彼女の身体に覆い被さるように馬乗りになった鶯丸に敵うはずもない。
彼女は強く目を瞑り、力なく呟いた。
「いや……。そ、んなこと、しないで……」
彼女に己の霊力を分け与えれば、彼女が時間圧に耐えられる限界は延びるはず。
口づけと共に力を明け渡されたことに気づいた彼女は、彼を拒絶した。霊力を補強する彼の行為は「父親から贈られた彼女の時間だけを精一杯全うしたい」という彼女の意志に反する。もちろん、彼自身もそれを理解していた。
――この子が選択する未来を、この子の隣で見守り続けてくれるだろう。
かつての主の言葉が脳内で揺れる。
「……わかっている」
鶯丸は顔を顰めた。噛み締めた唇が切れてしまうほどに、強く、強く歯を食いしばる。
「それでも俺は、お嬢に……君に……!」
生きていてほしい。
彼の瞳から零れた涙が一粒、彼女の頬へぽたりと落ちた。
口にできるはずのない想いが、どうか伝わりますように――そう願うことは、かつての主命に叛くことになるだろうか。
乱れる呼吸と嬌声が暗闇に響く。甘く切ない吐息と共に彼女の唇から彼の名前が零れるたびに、彼はその口を塞ぐ。
深い悲しみの終着を探すように。心の奥深くを抉る、遣る瀬ない苦しみを分けあうように。二人は夢中で指先を絡める。
少しでも長く互いの体温を分けあっていたくて、彼と彼女は、果てるまで何度も何度も口づけを交わした。
その二
「うわー! 主さん、とっても素敵!」
「当たり前でしょ、俺が本気でおめかしさせたんだから」
本丸のとある一室では、明るい笑い声が咲いていた。姿見の前でくるりと回って見せた彼女は振り返り、はにかんだ。
「うん、落ち着いた赤が似合ってるね」
臙脂に白梅の古典柄。黒を効かせた花模様の半衿が凜々しい。上品な金地の袋帯に新緑の帯締めがよく映える。
早朝から乱と加州、燭台切らが本日の主役である彼女を取り囲み、ああでもないこうでもないと、着せ替え人形のように飾り立てていた。彼女はただされるがまま、変身してゆく己の姿を落ち着きなく眺めていた。
「そ、そうかな……?」
「柄が古典的だから、現世風に華やかにね。主の雑誌借りて、頑張っちゃった」
櫛を手の平でくるくると回しながら加州がにっこりと笑う。パーカーにジーンズ姿がここまで変身するとはね、と、着付けを手伝った乱が満足そうに頷いた。
ストレートの黒髪はゆるやかに巻き上げられている。毛先をまとめずに、ふわふわに散らす。サイドに付けた白い花飾りが大胆に咲き、後れ毛も可愛らしい。
「主は肌が白いから桃色も似合うと思うんだけれど、着物の色に合わせてみたよ。どうかな」
白粉は軽めに、目元には控えめな茶色を。そして、口元には深く赤い紅を引く。溌剌とした普段の印象はほとんどない。楚々とした女性らしさが際立つ、凜としつつも儚い姿に、燭台切は穏やかに微笑んだ。
「さっすが燭台切。わかってんじゃん」
「乱君の着付けの腕もすごいよね。上手」
「ボクはただ着せただけ。爪紅は加州さんが塗ったの? 加州さんとお揃いなんだね」
「みんな、なんでそんなに女子力高いの……」
わいわいと盛り上がり互いの腕を褒め合う三振りの中、彼女は「私なにもしてないや」と苦笑いを浮かべる。
やがて、廊下からぱたぱたと足音が近づいてきた。こんこんと桟を叩く音とほぼ同時に、がらりと組子障子が開けられる。
「よぉ、大将。鶯丸の旦那をつれてきたぞ。準備できたか……って……」
「ちょっと薬研! ノックの意味なーい!」
頬を膨らませ、乱が文句を垂れた。その視線の先にいるのは、目を丸くした薬研。
――そして。
「……」
「え、へへ……どう……?」
薬研に手を引かれるように部屋に入った鶯丸は、目の前で淑やかにポーズを取る彼女を見てぴたりと固まった。
「こいつはすごい。大将、とんだ別嬪さんに仕立て上げてもらったなぁ」
「うん、乱が着付けしてくれてね。髪は加州、化粧は燭台切にやってもらったんだ」
「ちょっとー、そこの鶯太刀。主を見た感想は?」
加州に急かされ、彼女の代わり映えに惚けていた鶯丸は我に返った。期待に満ちた四振りの目と、不安そうに揺れる彼女の瞳が見つめてくる。
鶯丸は彼女の前に歩み出て手を伸ばし、そっとその頬に触れた。
「綺麗だ」
頬を染める彼女に、鶯丸は目を細めた。
「あまりにも綺麗でね。梅の花の精でも現れたかと」
「えっ」
「鶯丸さんって、気取った台詞言える刀だったんだ……」
目を見開き固まる燭台切に、彼女につられて顔を赤くする乱。げんなりした表情の加州が首を横に振る横で、薬研がからかうように口笛を吹く。
「うわぁ、てっきり燭台切の分野だとばかり」
「旦那、大将が固まってるぞ」
周りの声など関係ない。慈しむように頬を撫でてじっと見つめる鶯丸に、彼女は恥ずかしそうに俯いた。二人には珍しく、その場にいるだけで満腹になってしまうほどの甘ったるい雰囲気が漂っている。
四振りは顔を見あわせ、口元に笑みを浮かべた。
「あーあー、熱い熱い」
「ボクたちお邪魔虫はもう退散するよー」
やれやれ、と肩を竦めた加州が部屋を出て行く。鶯丸さんと仲良くね、と悪戯っぽく笑う乱は、その澄んだ目に涙を浮かべていた。
「加州、乱……」
「主、鶯丸さん。会食の支度しちゃうから、もう少ししたら広間においでね。最後だから、大盤振る舞いだよ」
腕によりをかけて作ったんだから全部食べてもらわなきゃね、とウィンクする燭台切に、瞳を潤ませたのは彼女の方だった。
「燭台切も。……みんな、ありがとう」
「あっこら、頭下げないの! せっかくの俺のアレンジ台無し!」
我慢していたのであろう。ぽろぽろと涙を零しながら、加州がにっこりと笑った。ついに泣き出してしまった加州と乱を宥めるように燭台切が退室を促した。
「大将」
三振りが去ってしまった後に残ったのは、薬研と鶯丸のみ。白く小さな彼女の手を掴むと、薬研はそれを強く握り締める。
「俺っちは、大将の近侍で誇らしかったぜ」
「や、げ……」
とうとう、堪えきれなくなった彼女の瞳から涙が落ちた。
「泣くな。せっかくの美人が台無しだ」
彼女の顔を覗き込み、薬研はにぃっと口角を上げた。彼女を撫でる彼の首元には、以前の包帯が巻かれたまま。
「次の本丸でも、みんなのお世話をよろしくね」
「ああ。旦那、大将を宜しく頼むぜ」
そう言い残し、薬研も片手を上げて部屋を出て行ってしまった。
「……今日が最後、か」
彼女が寂しそうに呟き、俯いた。
明日、彼女は鶯丸を残し、すべての所持刀剣の顕現を解く。
彼女は結局、最後まで真実を隠し通した。
身体が弱り審神者業を続けられなくなった。所持刀剣はすべて知り合いの審神者に引き継ぐ。その最後の立ち会いを鶯丸に頼むことにした。
本当にただそれだけしか伝えなかったのだが、彼女の纏う雰囲気からなにかを察したのだろう。彼女の刀剣たちは、黙って彼女の決断を受け入れた。
「薬研に任せておけば心配ない。上手くやってくれるだろうさ」
「あっ、だめ! せっかく燭台切が紅を引いてくれたのに」
片時も彼女から目を離そうとはしない鶯丸は、薬研の去った廊下をじっと見つめる肩を抱き寄せる。そのまま彼女へ唇を寄せようとしたが、彼女の手によって阻まれてしまった。
「直せばいいだろう。俺が引いてやるよ」
「ええ……うぐさん不器用そうだからなぁ……」
きっとはみ出すに違いない。そう言ってくすくすと笑う彼女に「仕方ない」と溜息をつき、鶯丸は彼女の額に唇を落とした。
その三
本丸に二人きりになって、七日が過ぎた。
麗らかな日差しが心地よい午後だった。縁側に腰かけた鶯丸は目を閉じ、春の風を感じていた。
いつも誰かしらの笑い声が響いていた本丸は、水を打ったように静まりかえり、鳥の囀りが近くに聞こえる。
この本丸は、こんなに広かったのか。
幼い彼女と二人でいたときにそう感じなかったのが不思議なほどである。
「ねえ、うぐさん」
「ん」
寝間着姿のまま鶯丸の隣に座る彼女は、そっと、戦装束の彼の肩に凭れかかった。ふふ、と口元を綻ばせただけで、言葉を紡ぐことはなかった。いつもの、彼女の甘え方だ。
右肩にかかる僅かな重みと温かさが心地よく、鶯丸は目を瞑る。白い光を感じ取り、視覚以外の感覚を研ぎ澄ます。すると、だだっ広い世界に彼女と二人だけ、取り残されたような気がした。
それでも構わない。彼女と一緒にいられるのであれば。
「……うぐさん」
「なんだ」
彼女の穏やかな声音に、鶯丸は小さく返事をした。
「私は、歴史を守れたかな」
不意に、二人を攫うような強い風が中庭を通り抜けた。梅の花が揺れ、青空に白い花びらがぶわりと舞い上がる。
「……さあな」
それを目で追っていた鶯丸は、小さく息を吐き出した。
「――だが、俺はお嬢を愛していたぞ」
彼の穏やかな声が、がらんとした本丸の廊下に響いた。
春の息吹が野山を駆け巡り、新たな芽を祝福する。空は青く晴れ渡り、柔らかい光が中庭に降り注ぐ。
ほう、ほけきょ。
鶯丸は小さく口笛を吹いた。それは春の訪れを告げる声。
「お嬢。朝だ」
梅の木の枝に、一羽のメジロが舞い降りた。首を傾げながら、確かに仲間の声がしたと羽を忙しなく仕舞う姿に、鶯丸はもう一度口笛を吹く。
――ほう、ほけきょ。
上手いね、と微笑んでくれた彼女が、彼の瞼の裏で笑っている。
「……起きてくれ、お嬢……」
肩にかかる重みは、いつのまにか消えていた。
彼はただひとり本丸の縁側に腰かけ、啼いていた。
日が暮れるまで、ただひとり――。
なかなか寝つくことができず、鶯丸はむくりと起き上がった。
刻の流れが緩やかな夜だった。壁に掛けた時計の秒針の音がやけに大きく響き、無意識に心を急き立てる。鶯丸は曖昧な視界を慣らすように、二、三度瞬きをした。
喉が酷く乾いていた。溜息をつき、身体を起こす。布団から身を乗り出して側にある文机に手を伸ばし、水差しを取った。湯呑みにとぽとぽと水を注ぐと、隣でもぞもぞと温かいものが動いた。
「ん……」
「お嬢も飲むか」
「うん……」
彼の手から湯呑みを受け取り、彼女はのろのろと起き上がった。小さく「ありがとう」と呟き、そっとそれに口づける。ごくりと飲み下し動く喉元を見ていた鶯丸は、彼女の赤く腫れた目を見逃さなかった。彼女も眠れないのだろう。鶯丸はそっと彼女の身体を正面から抱き寄せ、その頭に顎を乗せた。
過去への長い旅を終えたばかりだ。帰還後すぐに布団に入ったものの、どうにも興奮が冷めやらない。
「……やはり、辞めるのか」
月見障子から差し込む月明かりが白く畳に落ちている。それをぼんやりと眺めながら、鶯丸はぽつりと呟いた。
「……うん」
なにを、とは言わなかったが、察したのだろう。彼女は力強く頷き、そっと鶯丸の背中に手を伸ばした。
「身寄りもなにもない私が、唯一だと思えたのはこの本丸だよ。ずっと審神者として生きてきたから、それしかないんだ」
変えられそうにない彼女の決意を肌で感じ、鶯丸は抱きすくめる腕に力を込める。今すぐに居なくなるものではないとわかっていながらも、消えてしまうのではないかという不安がつきまとい、離れない。
苦しいよ、と苦笑いしながら、彼女はそっと鶯丸の髪に触れた。ふわふわとした鶸萌葱色の髪の毛を指に絡ませ、前髪を掻き分ける。
「歪んだ歴史を築く要因になってしまったのはショックだけれど、お父さんからもらった命は大事にしたい。でも、私の霊力は残り少ない」
彼を捕まえる彼女の瞳は、夢で見た、彼のかつての主の瞳と同じ輝きを呈している。困ったように眉をハの字にして笑う彼女に、鶯丸は息が詰まりそうだった。
「不思議だね。自分自身の霊力もちゃんとあったはずなのに、あの……ガゼボで自分の過去を知った日から、どうやって霊力を高めたらいいのか、わからなくなってしまったの」
いつか鶯丸がそうしたように、彼女はこつりと彼の額に自身のそれをぶつけた。
「だから、今の私にできることは審神者としての任務を全うすることだけ。――それは、今の私の所持刀剣たちに霊力をありったけ注いで可愛がって、引き継ぎ先の審神者に渡して役立ててもらうこと」
腕の中で微笑む彼女は、過去を知ったときの、今にも消えてしまいそうなほどに弱々しい姿ではなかった。
真実を知り、父親の言葉を聞き、過去と自分自身に向き合い――出した結論は、審神者として生き抜くこと。確固たる決意が表れた声は凜として、鶯丸の心を楔で打ちつける。それは、彼女と共に在ることに喜びを見出しはじめた鶯丸にとって、限りなく絶望に近い言葉だった。
「うぐさん。私からの最後のお願い」
彼女は鶯丸から体を離すと、彼の両手をそっと掴んだ。
「うぐさんには、私が居なくなるまでずっと側にいてほしいの」
部屋に落ちる月明かりが照らす彼女は、至極穏やかな笑みを浮かべていた。
「俺に、お嬢の最後の一振りになれと?」
彼女は曖昧に微笑んだままで、鶯丸の問いには答えない。鶯丸の脳裏に、過去で見た明石の表情が蘇る。主の最後の一振りになれる。頷いた彼は、満ち足りた顔をしていた。今でも鶯丸は心の片隅で思っている。「自分もかつての主の最期に花を添えられたらよかったのに」と。
しかし、今はどうだ。彼女の最後の一振りになれるとわかっていても、嬉しさなど微塵もない。言いようのない虚しさと寂しさだけが、空っぽの心をじわじわと浸食する。
違う。彼女の最後の一振りになりたいわけではない。ただ、少し。もう少しだけ、彼女と共に生きる時間が欲しいのだ。
鶯丸は彼女の頬を両手で挟み、顔を持ち上げた。断りもなく、彼女の唇を奪う。
「ん……」
これが彼の愛情表現なのだと知っている彼女は、抵抗をしなかった。そっと彼の肩に手を添え、応えるように身体を委ねる。
「……」
「っ、」
薄く目を開けた鶯丸は少しだけ唇を離し、角度を変え、再び深く包むように啄んだ。びくりと震えた彼女を逃がさないよう、首筋、そしてうなじへと手を這わせる。
少し身体を固くした、彼女が愛おしい。
彼は強く目を瞑り、強引に口づけた。驚き戸惑う彼女の唇をこじ開けて舌先をねじ込み、柔らかい口内を弄る。
「ん、ぅ……」
逃げる彼女の舌先を捕らえて絡め取る。己の舌先を口内に擦りつけては、熱く甘い彼女のそれを強く吸う。彼女の口端から、どちらのものともつかない唾液がたらりと伝い、零れ落ちた。
「……んっ、ぁ、は……っ」
頼む。俺の前から消えないでくれ。
切なく胸を締めつける苦しさが、彼の身体から喉を通り、舌先へと集まってゆく。
そのとき、彼女は突然目を見開いた。
「や、だ……やめて、うぐさん……っ」
首を大きく振り唇を離すと、いやいやと顔を背けようとする。そんな抵抗も空しく、鶯丸は彼女の手首を掴むと、布団へ押し倒した。
逃げ場をなくした彼女の首筋へ唇を落とす。男女の対格差を考えれば、どちらの方が力があるかなどすぐにわかる。ましてや、彼女の身体に覆い被さるように馬乗りになった鶯丸に敵うはずもない。
彼女は強く目を瞑り、力なく呟いた。
「いや……。そ、んなこと、しないで……」
彼女に己の霊力を分け与えれば、彼女が時間圧に耐えられる限界は延びるはず。
口づけと共に力を明け渡されたことに気づいた彼女は、彼を拒絶した。霊力を補強する彼の行為は「父親から贈られた彼女の時間だけを精一杯全うしたい」という彼女の意志に反する。もちろん、彼自身もそれを理解していた。
――この子が選択する未来を、この子の隣で見守り続けてくれるだろう。
かつての主の言葉が脳内で揺れる。
「……わかっている」
鶯丸は顔を顰めた。噛み締めた唇が切れてしまうほどに、強く、強く歯を食いしばる。
「それでも俺は、お嬢に……君に……!」
生きていてほしい。
彼の瞳から零れた涙が一粒、彼女の頬へぽたりと落ちた。
口にできるはずのない想いが、どうか伝わりますように――そう願うことは、かつての主命に叛くことになるだろうか。
乱れる呼吸と嬌声が暗闇に響く。甘く切ない吐息と共に彼女の唇から彼の名前が零れるたびに、彼はその口を塞ぐ。
深い悲しみの終着を探すように。心の奥深くを抉る、遣る瀬ない苦しみを分けあうように。二人は夢中で指先を絡める。
少しでも長く互いの体温を分けあっていたくて、彼と彼女は、果てるまで何度も何度も口づけを交わした。
その二
「うわー! 主さん、とっても素敵!」
「当たり前でしょ、俺が本気でおめかしさせたんだから」
本丸のとある一室では、明るい笑い声が咲いていた。姿見の前でくるりと回って見せた彼女は振り返り、はにかんだ。
「うん、落ち着いた赤が似合ってるね」
臙脂に白梅の古典柄。黒を効かせた花模様の半衿が凜々しい。上品な金地の袋帯に新緑の帯締めがよく映える。
早朝から乱と加州、燭台切らが本日の主役である彼女を取り囲み、ああでもないこうでもないと、着せ替え人形のように飾り立てていた。彼女はただされるがまま、変身してゆく己の姿を落ち着きなく眺めていた。
「そ、そうかな……?」
「柄が古典的だから、現世風に華やかにね。主の雑誌借りて、頑張っちゃった」
櫛を手の平でくるくると回しながら加州がにっこりと笑う。パーカーにジーンズ姿がここまで変身するとはね、と、着付けを手伝った乱が満足そうに頷いた。
ストレートの黒髪はゆるやかに巻き上げられている。毛先をまとめずに、ふわふわに散らす。サイドに付けた白い花飾りが大胆に咲き、後れ毛も可愛らしい。
「主は肌が白いから桃色も似合うと思うんだけれど、着物の色に合わせてみたよ。どうかな」
白粉は軽めに、目元には控えめな茶色を。そして、口元には深く赤い紅を引く。溌剌とした普段の印象はほとんどない。楚々とした女性らしさが際立つ、凜としつつも儚い姿に、燭台切は穏やかに微笑んだ。
「さっすが燭台切。わかってんじゃん」
「乱君の着付けの腕もすごいよね。上手」
「ボクはただ着せただけ。爪紅は加州さんが塗ったの? 加州さんとお揃いなんだね」
「みんな、なんでそんなに女子力高いの……」
わいわいと盛り上がり互いの腕を褒め合う三振りの中、彼女は「私なにもしてないや」と苦笑いを浮かべる。
やがて、廊下からぱたぱたと足音が近づいてきた。こんこんと桟を叩く音とほぼ同時に、がらりと組子障子が開けられる。
「よぉ、大将。鶯丸の旦那をつれてきたぞ。準備できたか……って……」
「ちょっと薬研! ノックの意味なーい!」
頬を膨らませ、乱が文句を垂れた。その視線の先にいるのは、目を丸くした薬研。
――そして。
「……」
「え、へへ……どう……?」
薬研に手を引かれるように部屋に入った鶯丸は、目の前で淑やかにポーズを取る彼女を見てぴたりと固まった。
「こいつはすごい。大将、とんだ別嬪さんに仕立て上げてもらったなぁ」
「うん、乱が着付けしてくれてね。髪は加州、化粧は燭台切にやってもらったんだ」
「ちょっとー、そこの鶯太刀。主を見た感想は?」
加州に急かされ、彼女の代わり映えに惚けていた鶯丸は我に返った。期待に満ちた四振りの目と、不安そうに揺れる彼女の瞳が見つめてくる。
鶯丸は彼女の前に歩み出て手を伸ばし、そっとその頬に触れた。
「綺麗だ」
頬を染める彼女に、鶯丸は目を細めた。
「あまりにも綺麗でね。梅の花の精でも現れたかと」
「えっ」
「鶯丸さんって、気取った台詞言える刀だったんだ……」
目を見開き固まる燭台切に、彼女につられて顔を赤くする乱。げんなりした表情の加州が首を横に振る横で、薬研がからかうように口笛を吹く。
「うわぁ、てっきり燭台切の分野だとばかり」
「旦那、大将が固まってるぞ」
周りの声など関係ない。慈しむように頬を撫でてじっと見つめる鶯丸に、彼女は恥ずかしそうに俯いた。二人には珍しく、その場にいるだけで満腹になってしまうほどの甘ったるい雰囲気が漂っている。
四振りは顔を見あわせ、口元に笑みを浮かべた。
「あーあー、熱い熱い」
「ボクたちお邪魔虫はもう退散するよー」
やれやれ、と肩を竦めた加州が部屋を出て行く。鶯丸さんと仲良くね、と悪戯っぽく笑う乱は、その澄んだ目に涙を浮かべていた。
「加州、乱……」
「主、鶯丸さん。会食の支度しちゃうから、もう少ししたら広間においでね。最後だから、大盤振る舞いだよ」
腕によりをかけて作ったんだから全部食べてもらわなきゃね、とウィンクする燭台切に、瞳を潤ませたのは彼女の方だった。
「燭台切も。……みんな、ありがとう」
「あっこら、頭下げないの! せっかくの俺のアレンジ台無し!」
我慢していたのであろう。ぽろぽろと涙を零しながら、加州がにっこりと笑った。ついに泣き出してしまった加州と乱を宥めるように燭台切が退室を促した。
「大将」
三振りが去ってしまった後に残ったのは、薬研と鶯丸のみ。白く小さな彼女の手を掴むと、薬研はそれを強く握り締める。
「俺っちは、大将の近侍で誇らしかったぜ」
「や、げ……」
とうとう、堪えきれなくなった彼女の瞳から涙が落ちた。
「泣くな。せっかくの美人が台無しだ」
彼女の顔を覗き込み、薬研はにぃっと口角を上げた。彼女を撫でる彼の首元には、以前の包帯が巻かれたまま。
「次の本丸でも、みんなのお世話をよろしくね」
「ああ。旦那、大将を宜しく頼むぜ」
そう言い残し、薬研も片手を上げて部屋を出て行ってしまった。
「……今日が最後、か」
彼女が寂しそうに呟き、俯いた。
明日、彼女は鶯丸を残し、すべての所持刀剣の顕現を解く。
彼女は結局、最後まで真実を隠し通した。
身体が弱り審神者業を続けられなくなった。所持刀剣はすべて知り合いの審神者に引き継ぐ。その最後の立ち会いを鶯丸に頼むことにした。
本当にただそれだけしか伝えなかったのだが、彼女の纏う雰囲気からなにかを察したのだろう。彼女の刀剣たちは、黙って彼女の決断を受け入れた。
「薬研に任せておけば心配ない。上手くやってくれるだろうさ」
「あっ、だめ! せっかく燭台切が紅を引いてくれたのに」
片時も彼女から目を離そうとはしない鶯丸は、薬研の去った廊下をじっと見つめる肩を抱き寄せる。そのまま彼女へ唇を寄せようとしたが、彼女の手によって阻まれてしまった。
「直せばいいだろう。俺が引いてやるよ」
「ええ……うぐさん不器用そうだからなぁ……」
きっとはみ出すに違いない。そう言ってくすくすと笑う彼女に「仕方ない」と溜息をつき、鶯丸は彼女の額に唇を落とした。
その三
本丸に二人きりになって、七日が過ぎた。
麗らかな日差しが心地よい午後だった。縁側に腰かけた鶯丸は目を閉じ、春の風を感じていた。
いつも誰かしらの笑い声が響いていた本丸は、水を打ったように静まりかえり、鳥の囀りが近くに聞こえる。
この本丸は、こんなに広かったのか。
幼い彼女と二人でいたときにそう感じなかったのが不思議なほどである。
「ねえ、うぐさん」
「ん」
寝間着姿のまま鶯丸の隣に座る彼女は、そっと、戦装束の彼の肩に凭れかかった。ふふ、と口元を綻ばせただけで、言葉を紡ぐことはなかった。いつもの、彼女の甘え方だ。
右肩にかかる僅かな重みと温かさが心地よく、鶯丸は目を瞑る。白い光を感じ取り、視覚以外の感覚を研ぎ澄ます。すると、だだっ広い世界に彼女と二人だけ、取り残されたような気がした。
それでも構わない。彼女と一緒にいられるのであれば。
「……うぐさん」
「なんだ」
彼女の穏やかな声音に、鶯丸は小さく返事をした。
「私は、歴史を守れたかな」
不意に、二人を攫うような強い風が中庭を通り抜けた。梅の花が揺れ、青空に白い花びらがぶわりと舞い上がる。
「……さあな」
それを目で追っていた鶯丸は、小さく息を吐き出した。
「――だが、俺はお嬢を愛していたぞ」
彼の穏やかな声が、がらんとした本丸の廊下に響いた。
春の息吹が野山を駆け巡り、新たな芽を祝福する。空は青く晴れ渡り、柔らかい光が中庭に降り注ぐ。
ほう、ほけきょ。
鶯丸は小さく口笛を吹いた。それは春の訪れを告げる声。
「お嬢。朝だ」
梅の木の枝に、一羽のメジロが舞い降りた。首を傾げながら、確かに仲間の声がしたと羽を忙しなく仕舞う姿に、鶯丸はもう一度口笛を吹く。
――ほう、ほけきょ。
上手いね、と微笑んでくれた彼女が、彼の瞼の裏で笑っている。
「……起きてくれ、お嬢……」
肩にかかる重みは、いつのまにか消えていた。
彼はただひとり本丸の縁側に腰かけ、啼いていた。
日が暮れるまで、ただひとり――。