終幕

「――これで、俺の話はすべてだ」
 最後のお茶を飲み干した鶯丸は、少し疲れたとばかりに溜息をついた。
「『もしも自分が引き継ぎ前にいなくなってしまったら宜しく頼む』とお嬢に言われてはいたが、まさか引継ぎ先の審神者がお前だったとは」
「政府機関を退職したばかりの新米審神者だ。至らぬところもあるが」
「三日月宗近を近侍にしておきながら、なにを言う」
 鶯丸は苦笑する翁に薄く笑い、立ち上がった。卓から離れて翁の近くに座し、深々と頭を下げる。
「どうか、彼女の刀たちを宜しく頼む」
「……引き受けた」
 白髪を揺らし、翁は溜息をついた。上体を起こした鶯丸が見つめる襖戸の奥には、薬研をはじめ、彼女の刀剣たちが置かれている。
 そろそろか、と鶯丸が口元に笑みを浮かべたとき、三日月は首を傾げた。
「しかし鶯丸。お前はいいのか」
「ああ。これでいい。この本丸に残ったお嬢の霊力が尽きれば、俺の顕現も解ける」
 過去から帰還したときは、彼女の最後の一振りになることを辛く感じていた。しかし、いざ彼女がいなくなってみると、不思議なものである。「己も彼女が消えた本丸で役目を終えたい」という、かつての主への想いとも異なる穏やかな願いだけが、彼の胸中を占めている。
 主命は果たした。彼女もいない。その世界で、どうやって在り続ければ良い。尋ねるようでいて結論の出ている鶯丸の想いに、答えられる者はいない。彼を黙って見つめていた三日月も、「そうか」と淡く微笑むだけだった。
「そうなる前に、俺を刀解してくれ」
 こればかりは自分でやるには労力がいる、と笑う鶯丸に、翁は静かに目を伏せる。それを了承の意と捉えた鶯丸が、先ほどまで座っていた座布団の横に置いた本体を翁に手渡そうとしたときだった。
「しかし……どうしてもわからなかったことが、ひとつだけある」
 ふとなにかを思い出したように手を止めた鶯丸は、小さく首を傾げた。
「何故、俺の記憶を消したのがお前だったんだ」
 過去で、かつての主は確かに「鶯丸の記憶を消す」と言っていた。しかし鶯丸の記憶では、彼の記憶を消したのは主ではなく、目の前の翁だ。
 彼の本体を受け取るために差し出された、翁の手がびくりと跳ねる。皺が刻まれた顔の瞳は大きく見開かれ、唇が僅かに震えていた。
 しばらく、沈黙が流れた。言いたくないのであれば別に、と鶯丸が口を開きかけたときだった。
「――息子の、私に対する最初で最後の願いだったのだ」
「な、」
 その言葉に、今度は鶯丸が驚愕の表情を浮かべた。言葉を失い、ごくりと唾を飲む。
「……あんなに冷徹だと言われた男も、自分の手でお前の記憶を消すのだけはどうしてもできなかったらしい」
 愛刀の歩んできた歴史を消す。鶯丸を愛でていただけに、それは彼の主にとって耐えがたいものだったに違いない。
 長年、政府の要職に就いていた体格の良い翁は、狩衣の背を丸くして、寂しそうに呟いた。
「二十年前、愚息がお前とともに彼女と出会ったとき……きっと、彼女に幼い頃の自分の姿を重ねたのかもしれん」
 年端も行かない頃から審神者としての才能の片鱗を窺わせていた息子とは、話らしい話をすることもなければ、顔を合わせることも少なかった。
 すべて昔の話だ、と大きく息を吐いた翁は伏せていた顔を上げ、鶯丸を見て目を細めた。
「愛孫の刀剣たちだ。丁重に扱う」
 そう言いながら、翁は懐から一通の封筒を取り出した。
 淡い緑色のそれには宛名がない。翁はその封筒をじっと見つめたのち、鶯丸へそっと差し出した。
「なんだ」
「――彼女から、もしもお前が刀解を願うようであれば……と、前もって渡されていた」
「……お嬢が?」
 鶯丸は訝し気に翁を見遣ると、その封筒を受け取った。厚みのないシンプルなそれの裏には封蝋が施されていた。僅かだが彼女の霊力が感じられ、鶯丸の心が逸る。
 彼が恐る恐る封を切った、そのときだった。
「っ、」
 梅の花びらと共に、柔らかい風がふわりと鶯丸を包みこんだ。淡く優しい光が辺り一面に広がり、本丸を覆い尽くす。
 それは、穏やかな希望だった。彼女と共に在りたいと願う鶯丸の心に、春を宿す。彼の胸の奥に、ほんのりと熱が灯りはじめる。
「これは……」
 鶯丸は、そっと瞳を閉じた。
 新しい生命が芽吹く音がする。雪解けの水が流れ、土を潤す。鳥は歌い、花が咲く。それらに呼応するように、彼を包み込む光と風が清らかに舞う。「生きろ」とばかりに、彼女の最後の霊力が鶯丸の体中に漲ってゆく。体中が、満たされてゆく。
 それは、残酷なまでに美しい春――。
「……お嬢は、嘘つきだな。言ったじゃないか。俺を道連れにすると……」
 遅れて舞い降りた花びらが一片、鶯丸の肩に落ちた。それを摘まんで手に取った鶯丸は、縁側から覗く青空を仰いだ。
 どこか遠くで、春の訪れを告げるウグイスが啼いていた。

(「春告鳥の罪と罰」/ 完)