第四幕 「光の在処」

「断る」
「どうして!」
 鶯丸は毅然として彼女の要求をはねつけた。頑なに頷こうとしない彼に縋る瞳は、強い光を宿している。決して生半可な気持ちではないのだ、と訴えかけてくるようで言葉に詰まる。
 彼女の肩を押さえて引き離した。その眼に引き込まれないよう、鶯丸は少し強めの口調で言い返す。
「行ってどうする」
「過去になにがあったのか、ちゃんとこの目で確かめたいの」
「お嬢の過去は、この前俺が語ったことが全てだ」
 それ以上わかることはないだろう、と溜息をつき、鶯丸は視線を逸らした。
 彼が無理やり話を終わらせようとしていることに気づいた彼女が、む、と眉を顰める。彼女の肩から手を離そうとした鶯丸の両手を捕まえ、彼女は口を尖らせた。
「じゃあ、訊くけれども」
 逃がさない。そう言わんばかりの剣幕に、鶯丸も顔を上げざるを得ない。
「私はどうして生きているの? 政府はどうして私を処罰しないの? うぐさんはお父さんの刀なのに、どうして今も本体に戻らずその姿でいられるの? ねえ、うぐさん答えられる!?」
 半ば噛みつくように語尾を強める彼女に鶯丸は閉口し、眉根を寄せる。どれもこれも、彼が語った過去からは究明できない謎だ。
 彼女が疑問に思うのももっともである。何故なら、それらは記憶を戻した俺自身がずっと考え続けてきたことなのだから。
 ただ――。
 鶯丸は、彼女に過去を語ったときのことを思い出し、唇を噛みしめた。
 己の腕の中にいるというのに、止め処なく溢れる涙。震えが収まらない小さな身体。鶯丸が畳みかけるような問いに答えたくない理由は、強がりな彼女に安息を与えたいがため。ただ、それだけだ。
 彼女が過去を知る、というのは、喜びと悲しみをもたらす諸刃の剣だ。今ここで、己と一緒に生きている。その事実だけで十分だというのに、彼女はどうして傷つくことを承知でそれ以上を望むのか。
 鶯丸は彼女の真っ直ぐな視線から逃れるように目を瞑った。
 審神者と付喪神の力を持ってすれば、歴史はいとも簡単に改ざんできてしまう。だからこそ、二十年前の主の一件は、他の審神者に知られてはならない事実であったはずだ。歴史改変を防ぐ立場である審神者に、歴史改変の実例を作らせてはならない。時の政府はそう考えていただろう。
 そして、もしも審神者と刀剣男士によって歴史が歪曲されてしまった場合、時の政府が選ぶと考え得るは二択だと鶯丸は睨んでいた。当時の記憶を持つ者たちを全て抹消するか、あるいは、関わった者たちを政府機関の支配下に置くか。
 けれども、例外がここにある。どんな理由があったかは不明だが、鶯丸と彼女は今、その二択以外が執行されたからこそ存在しているのだ。
 鶯丸は小さく息を吐き、過去へ行きたいと請う彼女へ返す答えを探した。
 現に、己は刀解されず、彼女も生きている。彼女はかつての主が大罪を犯してまで過去から連れてきた人の子だ。ましてや思慮深い主のこと、彼女が簡単に殺されてしまうような可能性を残しておくはずがない。
 主はきっと、知っていたのだろう。俺とお嬢は「なんらかの理由」で処罰の対象にならないということを。俺は刀解処分にならず遺品として扱われ、記憶を封じられるであろうことを。
 鶯丸は、「刃生尽きるまで全力で彼女を守れ」という、かつての主の遺言を喉の奥で反芻した。戸惑いが、鶯丸の心の扉の一枚を崩す。点と点が繋がり、彼の中で一本の線となってゆく。それは不穏な音を立て、知られざる二十年前の事実にひとつの仮説を立てた。
 恐らく、主は俺の記憶が消去されるであろうことを知っていた。その上で――俺の記憶がない前提で、彼女と二人生きてゆくことを願っていたのだとしたら――。
 鶯丸は目を瞑りながら、「時が来たら彼女に話せ」という主命とは相反する話だ、と、苦笑いを浮かべた。
 相変わらず、主の考えることはよくわからない。しかし、聡明な彼のこと。彼が罰せられた後のできごとすらもきっと、全て彼の思惑通りなのだ。矛盾に感じられる主命と願いこそが、彼の確かな本音なのだろう。
 小さく溜息をつきながら、きっとそうだ、と己に言い聞かせるように小さく頷く。つまり、欠落した記憶や過去の事実を暴くことは、鶯丸にとって、彼の主の想いに叛く行為と同義なのだ。
 やがて、鶯丸は静かに目を開けた。
 彼の出した結論は、拒絶だった。
「……お嬢は俺の主ではないからな。答える義理もない」
 まさか、大切なもの同士を天秤にかけるときが来るとは。
 苦笑いを悟られないよう、言葉少なに大きな溜息をつく。彼の強張っていた肩から少し、力が抜けた。
「そ……う、だよね……」
 弱々しい声に鶯丸が顔を上げると、彼女の顔は今にも泣き出しそうなほどに歪んでいた。彼女を傷つける言い方だとわかっていただけに、鶯丸の胸は締めつけられるように痛んだ。
 抱きしめて頭を撫でてやりたい衝動に駆られたが、そんなことをしたら彼女を突き放し諦めさせようとした意味がない。結局、先に折れた方が負けだ。そう己に言い聞かせ、鶯丸は握り拳に力を込めた。
 許してくれ、お嬢。俺はただ君を守りたいだけだ。これ以上、悲しい思いをさせたくないだけなのだ。
 なにを言われようと、真一文字に結んだ口を開くつもりはない。「いつもよりも少し強く言ったため、彼女も諦めるだろう」という心を鬼にした厳しさと、「少し嫌われたかもしれない」という寂しさとの間で板挟みになり、鶯丸が自嘲気味に笑ったときだった。
「……わかった。そしたら、一人で行く」
 鶯丸を見据えて力強く頷き立ち上がる彼女から、想定外の、彼の想像の斜め上をゆく回答が返ってきた。
 思わず、鶯丸は目を見開いた。彼女を追って咄嗟に立ち上がろうとして、体勢を崩す。踵を返し部屋を出て行かんとする彼女の腕をなんとか掴み、膝立ちのままに引き止めた。
「――これは驚いた。俺を、脅迫するか」
 はは、と微かな笑いさえ込み上げてきた。背筋を冷たい汗が滑り落ち、口端がひくひくと動く。
「脅迫? ……まさか」
 動揺を隠せない鶯丸に、彼女はきょとんとした表情で首を傾げた。
 ――そして。
「ただの独り言だよ」
 自身の腕を掴む鶯丸の手を取り、両手で包み込んで、にっこりと笑った。
 してやられた。俺の負けじゃないか。
 鶯丸は苦虫を噛み潰したような顔をした。先に折れた方が負けだ、と心に留めたばかりの己の戒めに刺し返される。
 それでもなお諦めきれず、鶯丸は食い下がる。
「……だいたい、これは出陣ではない。私的な理由で過去に飛ぶなど、処分が下るぞ」
「だからだよ」
 しかし、彼女の方が一枚上手だった。苦々しく呟く鶯丸にふわりと微笑み、しっかりと首を横に振る。
「有事の際に処罰を受けるのは俺とお嬢だけで十分だ――そう言ったのは、うぐさんでしょ?」
 仮に私が罪を犯すとしたら、あなたも道連れなの。
 悪戯っぽく笑う彼女に、鶯丸は軽い目眩を覚えた。今の彼女は、かつての主以上に悪知恵が働いている。
「……人の子育てとは、難しいものだな。とんだ悪女に育ててしまった」
 一体、誰に似たものか。
 呆れ果てた彼の声には諦めの色が含まれており、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「内番をサボろうとするうぐさんに似たんだよ、きっと。ほら、生みの親より育ての親って言うじゃない」
 嬉しそうに顔を綻ばせる彼女を目にしてしまっては、どうすることもできない。
 それ以上なにも言えなくなってしまった鶯丸は、盛大な溜息という白旗を揚げた。

その二

 それは、梢を揺らすような蜩ひぐらしの鳴き声が降る、夏の終わりだった。
 過去へ飛んだ鶯丸と彼女に聞こえたのは、風の音と虫の声、そして近くを流れる小川のせせらぎのみ。
 白い雲が疎らに浮かび、青空が高い。その下に広がるのは、頭を垂れて輝きはじめた見渡す限りの稲穂。時折強く吹く夏風に、撓しなるように流れる金色の波。
 その中を貫く一本の細い畦道へと降り立った二人を、二匹の蜻蛉が追い越していった。それを視線で追った先にあるのは、杉が生い茂る青々とした小高い山。山頂付近には神社があるのか、自然色では滅多に見られない、朱塗りの鳥居がちらりと見えた。
 ここはどこだ、と呆然とする彼女の横で、鶯丸は大きく息を吸い込んだ。
 酷く懐かしい力で、身体の中が満たされていく。微かに霊力が高まる心地に、鶯丸は確信を得た。
「お嬢、若干座標が逸れたな。主の本丸は、あの山の向こうだ。越えるぞ」
「……えっ? あ、う、うん……」
 鶯丸は彼女の手を取り歩き出した。小石を蹴りながら、二人はただひたすらに畦道を進む。
 お嬢が小さい頃はときどきこうやって、並んで外を歩いたものだが。
 鶯丸が口元に小さな笑みを浮かべたとき、彼女は首を傾げた。
「ねえうぐさん。道がわかるの?」
「ああ。あの男の霊力を微かに感じる。それに、この風景には見覚えがある」
「えっ」
「そうか。お嬢は裏山を越えてこちら側に来たことはなかったか」
 誰が手入れしているのかもわからない水田以外には、特になにもない。そう答える鶯丸の声は少しだけ、弾んでいた。
 あの山を越えたところに今俺たちが住む本丸があるのだ、と教えられた彼女は俯き、萎んだ声で答えた。
「……やっぱり、うぐさんはお父さんの刀なんだね」
「どうした、急に」
 声色が変わったことが気にかかり、鶯丸は歩く速度を緩める。
「……なんか、ちょっとだけジェラシー」
「じぇらしぃ?」
「意味なんて教えてあげない」
 ぷい、と横を向いてしまった彼女を見て、鶯丸は首を傾げた。どうやら、なにか彼女の機嫌を損ねるようなことをしてしまったらしい。
 鶯丸に背を向けて先を歩く小さな背中は、まだ彼女の本丸に薬研すらもいなかった頃の幼い彼女と重なった。
 頭の回転の早さと目的のために相手を謀れる図太さは、だいぶ主に似てきたと思っていたのだが。
 幼子の頃と変わらないところも残っているのだと、鶯丸は安堵にも似た気持ちを覚えた。
「元の時間に戻ったら、一緒にここを散歩してみるか」
 この景色と二十年後の景色、比較するのも楽しいだろう。そう言って隣に並び頭を撫でる鶯丸に対して、彼女の返事が僅かに遅れた。
「……そうだね。できるといいなぁ」
 なにかを噛みしめてから笑うような返事が引っかかる。しかし、ふと頭上から聞こえた鴉の鳴き声に意識を取られた鶯丸は、再び彼女の手を取り足早に歩き出した。
「お嬢、急ぐぞ。日が暮れたら、面倒なことになる」
 鶯丸の言葉に、彼女が前方の山を仰ぎ見る。
 時間遡行軍が現れないとは言い切れない。今、夜戦になれば圧倒的に不利なのは鶯丸の方だ。山際が茜色に染まりはじめたのを眺めた彼女は、「わかった」と小さく答え、彼の背中を追った

その三

「そういえば、肝心なことを訊いていなかったのだが」
 二人が草木の生い茂る山道に足を踏み入れた頃には、陽はだいぶ西に傾いていた。
 数日の間天候が良かったのだろう。乾いた山道はずいぶん歩きやすいものの、鶯丸と同じ速さで登ろうとする彼女は肩で息をしていた。
「二十年前の、いつに飛んだ?」
 彼女が躓かないように、と藪を掻き分けつつ進む鶯丸に、彼女は膝に手をついて荒い息を飲む。
「……政府の人に、聞いた。お父さんが審議にかけられる、前日」
「……!」
 鶯丸は顔を強張らせた。歩みこそ止めはしなかったものの、返す言葉が見つからずに口を噤む。
「……ねえ、うぐさんはこの日、なにをしていたの」
「前日……」
 遅れまいと必死に後ろをついてくる彼女の疑問を受け、過去の記憶を遡ってみる。が、脳裏に浮かぶのは審議の日の後ろ姿のみ。
 覚えていないならいいよ、と続ける彼女の言葉に素直に頷いてみたものの、彼の記憶の波は曖昧にうねったままだ。
 丈の長い草木が鬱蒼と茂る山道は薄暗く、葉の合間から橙に染まる夕焼けが零れている。二人が歩く細い道は延々と続くように思われたが、少し先にようやく木々の途切れが見えた。目を凝らせば、朱塗りの鳥居が姿を覗かせている。もうすぐ山頂付近だ、と安堵の溜息を漏らした鶯丸はようやく、先の彼女の問いに対して独り言のように呟いた。
「さて、どうだったか……」
「そっか。案外、普通に過ごしていたのかもしれないね」
「そうだな……ちなみにお嬢、」
 この後はどうするつもりだ。
 足下の砂利に足をとられ、彼女が転んでしまわないよう、鶯丸が振り返って手を差し伸べた。
 山を下れば、目的としていた本丸が見えてくる。接触を図るのか、はたまた遠目から見守るのか。「そう言えば本丸に辿り着いた後のことを聞いていなかった」と首を傾げる鶯丸に、彼女は「あ」と小さく声を漏らし立ち止まった。頬を掻く彼女の視線が不自然に泳ぐ。
「……考えて、ない」
 鶯丸はぽかんと口を開けた。彼女の回答を聞き間違えたかと、己の耳を疑い首を傾げてみる。彼女はきまりが悪そうに言葉を濁し、俯いた。
「だ、だから……考えて、ない……」
「……これはこれは」
 あれだけ強引に誘っておきながら。
 鶯丸は震える彼女の肩を見ながら、拍子抜けしたような、それでいてほっとしたような、複雑な思いに揺れていた。
 この行動力に計画性が伴えば、かつての主に並ぶくらいの切れ者と呼べるのだが、まだその域には達していないらしい。勢いだけで動いてしまった彼女を諫めるように、彼は小さく溜息をついた。
「お嬢、あの男の所持刀剣は全て最高練度だぞ」
 下手な動きをすると勘づかれてしまう、主に会うためには策を練らねば。そう付け足すと、彼女は唇を噛みしめた。
「まったく……なにをしたいかが曖昧なまま、よくも過去へ行きたいなどと言えたものだ」
「だ、だって! とにかく過去に行かなきゃうぐさんに」
 帰るか、と切り出す直前の鶯丸の腕にしがみついた。
「……え」
「……あ」
 二人の目が互いを捉えて見開いた。彼女が口を滑らせてしまい飛び出したのは、紛れもない彼の呼び名。必死に追い縋ったためにぽろりと零れた彼女の本音を、鶯丸が聞き漏らすはずもない。
「俺に、なんだ」
 両手を彼女の肩に置き、じっとその目を見据える。俯き口を閉ざす彼女の告白を待ってみたものの、二人の間に流れるのは風にそよぐ梢の沈黙のみ。
「お嬢」
 心を撫でる穏やかな声が、夏の終わりの夕暮れにぽつんと落ち、橙に寂寥が重なる。心地よい声色なのに、どこまでも真っ直ぐな鶸萌葱の瞳はしっかりと逃げ道を塞ぐ。そして、二人の間にできた侘しい隙間を、繋ぐように埋めてゆく。
 ついに決心したように、彼女は口を開いた。
「うぐさんに、うぐさんが知らない過去を見てもらいたかったの」
 気付いたら幼い私をあやしながら本丸に居た、って言っていたから。
 そう言いながら鶯丸の両肘をそっと掴む、彼女の手が震えている。
「私にとって一番大切なのは、今、うぐさんと一緒に生きてることだから。私にはその事実さえあればいい」
 鶯丸は言葉を失った。一緒に過去へ行ってほしい、と強請ねだられたときのことを思い出す。
 今ここで、己と一緒に生きている。その事実だけで十分だというのに、彼女はどうして過去を知りたがるのか。
 そう訊ねようとした鶯丸は、今にも泣きだしそうな彼女の表情に息を飲んだ。
「うぐさん、お父さんのことを思い出してから優しくなった。……ううん、違う。私を一人の人間じゃなくて、主の遺品として見るようになったでしょ。……そんなの、嫌だよ。いらないよ……!」
「お嬢……」
 違う、俺はお嬢を――。
 反論しようとして口を開いたものの、その続きを言うべきか躊躇する。
 確かに、かつての主が現代へ残したかったのが、彼女という存在だ。だが、鶯丸にとって、彼女は主の子というだけの存在ではない。腕の中に掻き抱き唇を重ねたいと思うほどには、恋情もあれば情欲もある。彼女もまた、彼に対して好意を寄せているのは誰の目から見ても明らかだ。
「どうしてお父さんが私に鶯丸を遺したのか。……私と一緒に生きてくれるって言うんだったら、うぐさんはこの質問に答えられるよね」
 彼女の目からはらりと思いの丈が伝い、紅潮した頬に跡を残す。苦しそうに顔を歪めながらも決して瞳を逸らそうとはしない彼女に、鶯丸の鼓動が高鳴ってゆく。
「でも、私にはわからないの。どうして私が今うぐさんと一緒に生きているのか……。私は、私に残された時間を、鶯丸と……今、あなたと一緒にいる意味が知りたいの!」
「……っ」
 息が止まるような瞬間を分け合った。口づけだけでは埋まらなかった距離。決して正面からぶつかることのなかった二人の心が今、ゆっくりと交錯しはじめる。
 暗黙の了解であるかの如く心を交えようとしなかったのは、彼女が人で、彼が付喪神だったからだろうか。はたまた、記憶を消去された後も、「かつての主の子である」という無意識の障壁が残っていたのだろうか。
 鶯丸は強く眉を顰めた。
 そんなこと、どうだっていい。二の足を踏んでいた二人。先に踏み出したのは彼女の方だ。互いに歩み寄れるのであれば、それをしないという選択肢はない。
 彼はそっと彼女の頬に手を伸ばし、その肌に触れようとした。 「私、うぐさんのことが――」
「! 動くな」
 刹那。
 鶯丸は続いた言葉を鋭く遮り、彼女の身体に覆い被さるように山道の脇へと倒れ込んだ。僅かだが、背筋を痺れさせる気配に呼吸を止め、全神経を耳へと集中させる。
「な、なに……むぐっ」
 突然のことに目を白黒させる彼女の口を片手で塞ぎ、逆の手で己の口に人差し指を当てて見せる。ただならぬ気配を察したのか、彼女は素直に身を縮こまらせた。鶯丸は、そんな彼女の身体を素早く腕に抱え、己の身体ごと近くの杉の木の影へと滑らせる。
 息を潜めて山道の様子を窺う鶯丸の服の裾を、彼女が控えめに引っ張ったときだった。
「……? ……っ!」
 彼女も、全身が粟立つ感覚を覚えたようだ。叫び声を上げそうになったのだろう。彼女は口元を両手で押さえ、大きく目を見開いた。
 鶯丸と彼女の視線の先にあるのは、山道を少し登った鳥居の前にちらちらと揺れる青い光。それは夕暮れの中で際立ち、異形な姿を浮かび上がらせている。
「どうやら、お嬢はだいぶ好かれているらしいな」
 小声で呟いた鶯丸は片膝を立てながら本体の柄へと手をかけ、思考を巡らせた。
 山間の茜色が濃い。これ以上時間が経過してしまっては、一人ではまだしも、彼女を抱えての戦いは不利だ。
 目視で確認できる相手は一体だが、鶯丸の経験から言って検非違使が単体で行動するとは考えにくい。少なからず、近くにもう一体はいるはずである。
 そっと目を瞑り、耳を欹そばだてる。葉の掠れる音と蜩の鳴き声、そして彼の隣で息を潜める彼女の微かな吐息以外、なにも音が聞こえない。
 二体目の気配なし。ならば、気づかれる前に消すのが上策。
 そっと開けた、鶸萌葱の双眸に輝きが迸る。彼は小さく息を吐くと、そっと彼女の頭に手を置いた。
「話の途中ですまない。……少し、ここでじっとしていてくれないか」
「だ、め……!」
 腰を抜かしてしまうのではないかと思えるほどに震えていた彼女は、懸命に首を横に振った。検非違使と対峙しようとする鶯丸を見るその瞳には、先日検非違使によって壊滅に近い状態に陥った、彼女の第一部隊の姿が重なって映っているのだろう。ぼろぼろと大粒の涙を零しながらも、嫌だ、行くな、と嗚咽混じりに言う彼女が鶯丸を引き止める。
「お嬢」
 必死に彼の腕を強く掴んで離そうとしない彼女に、鶯丸は苦笑いを浮かべた。
 目に涙を溜めて縋りつく彼女が愛おしい。心の奥が甘く締めつけられる痛みに戸惑いながら、彼女の前髪を指先で掻き分けてそっと唇を落とす。
「後で必ず聞く」
 だから、少しだけ待っていてくれるか。
 彼女の後頭部に手を回し、己の額を彼女の額にこつんとぶつけた。眉尻を下げて微笑む鶯丸に、彼女も頷くほかない。
「……無茶は、しないで……」
 目を瞑り、歯を食いしばり、必死に耐える愛しい人の頬を滴り落ちてゆく雫。その跡を追いかけて唇を這わすと、彼は彼女の口端に己の唇を寄せた。
「――拝命する」

その四

「さて、せいぜい期待に添えるようにしようか」
 そう言って立ち上がった鶯丸が、ゆっくり山道へと歩を進める。地を踏みしめて砂利を鳴らすと、ゆらゆらと揺れていた青い光の動きがぴたりと止まった。
「ふっ」
 短く息を吐いた鶯丸は、強く大地を蹴った。山道を駆け上がり、鳥居の前に広がる広くなだらかな分岐点へ躍り出る。そのまま鳥居をくぐれば、氏神を祭る古い社へ。鳥居脇の切通しを進めば、本丸の裏へと繋がる下り道だった。
 異形のものは、まさにその分岐点にいた。鶯丸の姿を認め、相対するようにぐらりと向きを変える。大太刀を構えた検非違使は雄叫びにも似た声を上げ、天を仰いだ。
「まずい、囮だったか……っ」
 他の個体の姿が見えないと思っていたが、これでは居場所が知れてしまう。痺れさせるような殺気に眉を顰め、鶯丸は抜刀した。じりじりとにじり寄り、探りながら間合いを詰める。
 その間を一筋の風が通り過ぎたとき、遂に鶯丸と検非違使が打ち合った。
「お嬢!! 走って下れ!!」
「わ、わかった……っ!」
 青光りする巨体が振り下ろした大太刀を刀身で受け止めながら、鶯丸が叫ぶ。重い打撃に両腕が些か痺れるものの、道の傍らから飛び出した彼女が鳴らす、砂利を蹴って駆けてゆく音が消えるまでは耐えねばならない。
 だいたい、何故ここに検非違使が出現する。お嬢は、そこまでして歴史から消さなければならない存在か。
 鶯丸が歯を食いしばり、力いっぱい大太刀を弾き返したときだった。
「きゃあああっ!!」
「お嬢!?」
 ――恐れていたことが起こった。
 麓へと続く切通しを駆け下りようとする彼女の前に現れたのは、大きく伸びる青白い光。天を突き上げる穂先が視界の端に映ったのを認めるや否や、鶯丸は目にも留まらぬ速さで大太刀の懐へ飛び込み、その身体を一突きにした。
 辺りに、低く恐ろしい唸り声が響き渡る。刃を引いた際に飛沫を上げた返り血にも構わず、後方へ飛び下がった鶯丸は体勢を立て直す。そして、地面を蹴った反動で彼女の元へ駆けだした。
「っ、や……っ」
 彼女の前に仁王立ちをする検非違使の槍がぎらりと光る。震える彼女は異形の者から目を逸らさずに後退りするのが精一杯で、逃げ出す余裕など微塵もない。
「お嬢!!」
 恐怖に慄き身を縮める彼女目がけて穂が突きだされたのと、ほぼ同時だった。
「う、鶯!?」
「ぐ……っ」
 彼女が目前に見たのは、鶯と黒の戦装束の背中。検非違使から彼女を守るように立ちはだかる壁に、彼女はあらん限りの声で叫んだ。
「鶯丸!!」
「……高速槍じゃなくて良かったなぁ、お嬢。普通の槍でも、間に合ったのが奇跡だ」
 普段となんら変わりのない、穏やかな声音。しかし、彼女の盾になろうと槍の穂を受けたその左脇腹は、貫通こそしていないものの大きく斬り裂かれている。そして、彼の足下には夥しい量の鮮血が広がっていた。
「け、怪我……!!」
「案、ずるな。……大事ない」
「でも……っ」
 彼女の悲痛な叫び声が木霊した。顔面蒼白で口元を押さえるその瞳から、ぼろぼろと涙が零れ落ちてゆく。
 機動で敵うはずのない相手である上に、陽の光は山際に沈みかけ、辺りは薄暗くなりはじめている。ましてや、草木の生い茂る山の中だ。存分に太刀を振るえない状況で、夜戦になってしまっては対抗するすべもない。
 肉を切らせて骨を断つしかない。瞬時にそう判断した鶯丸は、突き出される槍の動きを封じるために自身の体を犠牲にした。己の脇腹を切り裂く槍の柄を左腕で素早く掴み、脇に挟み込んだのだ。
「……槍を放して、逃げなくていいのか?」
「なに、言ってるの……?」
 その言葉は彼女に対してではなく、眼前の異形の巨体に向けられている。そうわかっていても、検非違使を睥睨しているであろう鶯丸の後ろ姿しか見えない彼女は、彼が薄ら笑いを浮かべていることなどわかるはずもない。
 鶯丸に捕らえられた得物を取り返そうと、検非違使が必死に槍の柄を引く。だが、させるものかとばかりにそれを離さない鶯丸は、脇腹に走る激痛に耐えながら口端を吊り上げた。
「殺すのは好きではないのだが、」
 検非違使が踏み込んでいるそこは、鶯丸の一足一刀の間合い。躊躇う必要など、どこにもない。
 鶯丸は右手で己が本体の柄を強く握りしめ、対峙する検非違使の胴目掛けて、横一文字に鋭く打ち払った。
「――殺さないと、誰が言った?」
 恐怖と戦慄が凝縮された断末魔の叫びが響き渡る。それが途絶える頃には、その強靱な体躯は真っ二つに切り裂かれ、山道へ転がっていた。
 一瞬のできごとに、彼女は言葉を失っていた。目の前にある背中が傾き、鶯丸が片膝をついて崩れ落ちた音でようやく我に返る。彼女も慌ててしゃがみ込み、鶯丸の肩を支えるように抱え込んだ。
「……っ! う、うぐさん、血……血がっ」
「……まだだ」
 止血のため、彼女は着ていたパーカーを脱ぎ彼の腹部へ巻こうとする。しかし、本体を握りしめたままの鶯丸がそれを止めた。彼が顎先で示す方向に彼女が視線を向けると、そこには、先ほど彼が仕留めたと思われた一体目の検非違使の姿があった。傷口を押さえてゆらりと立ち上がるそれは、明らかに鶯丸と彼女を探していた。
「そ、んな……!」
 彼女は愕然とした表情を浮かべた。腹部を押さえ肩を上下させる鶯丸を見て、首を小さく横に振る。
 これ以上彼を戦わせることはできない。そう踏んだのであろう彼女は立ち上がり、鶯丸の前に進み出て、彼に背を向けたまま両手を広げた。
「なんの、真似だ」
「もうやめて。折れてしまう……」
 華奢な両腕が震えている。初めて検非違使との戦いを目の当たりにした彼女にとって、それは逃げ出したくなるほどに恐ろしいものであるはずだ。
 だが、鶯丸の眼に映る彼女は、どうしようもない状況に怯える人の子ではなかった。目前に迫る危機を睨む瞳は爛々と輝き、なんとか活路を見出さんと唇を噛みしめている。  ああ、主。君の子は君に似て、綺麗な瞳をしているな。
 彼女にかつての主の面影を重ね見た鶯丸は、顔を綻ばせた。顕現してから己が主だと認めた人の子は、後にも先にも一人だけだった。だが、彼女のために己の刃を振るうのも、悪くはない――。
「かは……っ」
 鶯丸が立ち上がろうとしたときだった。急に胃の底から強い不快感が込み上げ、口元に手を当てる。耐えきれず唾を吐くと、口内から赤い鮮血がぼたりと流れ落ちた。先ほどの槍の一撃で、内臓を損傷してしまったらしい。握り締めたままの本体を見やると、検非違使の大太刀を構えもなく受け止めてしまった所為か、薄らと亀裂が走っている。
 大丈夫。検非違使一体分は、耐えられる。
 己の本体をじっと見つめ、鶯丸は淡く微笑んだ。
「折れないさ。お嬢が思っているほど、ヤワではない……それに」
 喉を掠める呼吸がひゅうひゅうと嫌な音を立てた。汗が額に滲みはじめ、時折吹く風が冷たく感じられて肌に障る。腕で口元を拭うと、べったりとした赤黒い血液が鶯色の袖を殷に染めた。
 彼は立ち上がり、彼女の肩に手を置いた。下がるように顎先で背後を示し、本体を構える。見開く瞳は獰猛な鷹の如し。最後の戦いになるだろうと覚悟を決めたその双眸には、緑が激しく燃えている。
 鶯丸は、にやりと口角を吊り上げた。
「今は己一振りのみでお嬢を守らねばならないからな。悪いが、本気でいかせてもらうぞ」

その五

 気がつくと、鶯丸は闇の中にいた。上も下も右も左もない、静寂の空間。ふわふわと浮かんでいるらしく重力を感じない。立っているのか、それとも、横たわっているのか。
 己が手の平を持ち上げ、まじまじと指先を見つめる。明かりひとつない空間にもかかわらず、不思議なことに自身の身体はよく見えた。右腕も左腕もある。両脚も健在、脇腹の傷もない。腰元には本体を吊り下げていて、確かな重みを感じる。出陣時と同じ格好だった。
『平安時代の日本刀刀工一派、古備前派友成による一振り』
 不意に声がして、鶯丸はびくりと肩を震わせた。辺りをきょろきょろと見渡すものの、視界の限り広がる暗闇は消えることなく彼を包み込んでいる。
『一四三九年。結城合戦の折、室町幕府将軍足利義教より、武功のあった小笠原政康に褒賞として鶯の太刀が与えられる。以降、子孫の信嶺系小笠原家に伝来』
 己が過去を語る聞き覚えのある声に、鶯丸は胸の奥が熱くなる。
 懐かしい。
 瞳を閉じて、聴覚を研ぎ澄ます。鋭く、抑揚がなく、厳しく、それでいて温かい。心にじわりと入り込む、澄んだ低い声音。
 人の形で顕現して初めて耳にした、主の声だ。
『時は流れ、対馬藩宗家に買い取られる。明治には田中光顕伯爵家の元へと流れ、明治天皇へと献上されて現在に至る』
 それまで黙っていた鶯丸は首を傾げた。はて、どこかで聞いたことのある話だ、と引っかかる。話のあらすじは確かに彼自身の歴史なのだが、既知のことのように感じるのはその所為だけではない。少し前か、だいぶ昔か。同じ台詞を聞いたことがあったような気がして、彼は眉間に皺を寄せる。
『よく知っているな』
 瞳を閉じて記憶の糸を手繰りはじめていた鶯丸は、その台詞に顔を上げた。
 かつての主に答える、もうひとつの穏やかな声。それは紛れもなく、鶯丸自身のものだった。
『お前の主として、これくらいの歴史は』
『ん、なにをする……』
『顔をよく見せろ。……ふくれを修復したのは高田庄左衛門―やはり、』
 鶯丸は「ああ」と声を漏らした。やや煙たそうな自分自身の声を聞きながら、無意識のうちに、前髪に隠れた右目に触れていた。
『思っていた通り、綺麗な刀だ』
 かつての主の微笑む顔が鶯丸の脳裏に浮かび、喉の奥が詰まる。鶯丸にその表情を向けてくれたのは、後にも先にもこの、たった一度きりであった。細められた鶸萌黄の瞳に宿る光が、優しく揺れている。
 ――そうだ。これは、俺が主に顕現されたときの会話じゃないか。
 目頭が熱くなり、鶯丸は右手の平で顔を覆った。
 顕現以来、鶯丸はずっと近侍を務めていた。固定近侍にされていた理由は、今となっては知る由もない。正確無比かつ効率よく仕事をする主であったため、補佐をあまり必要としなかった。そんな主から特になにか要求されることもなく、鶯丸はただ、時間遡行軍と戦い男士たちを取り纏める日々を送っていた。
 だからこそ、なのかもしれない。無駄なことはしない主であったからこそ、他愛ない会話のひとつひとつをよく覚えていたのだろう。
 鶯丸はかつての主の姿を思い浮かべながら、ゆっくりと瞳を閉じた。

* * *

 それは、穏やかな小春日和だった。出陣もなければ遠征もない。縁側で、肌を刺す初冬の風に身震いしながら熱い茶を啜る鶯丸に、男は唐突に問いかけた。
『お前は、人を恨んだりはしないのか』
 振り返ると、主は文机に向かい筆を執ったまま視線を帳面へと落としている。空耳か、と首を傾げた鶯丸が身体を中庭へ向けようとすると、男は再び彼へ問いかけた。
『どうなのか』
『どうなのか、と言われても』
 まずなんの話だ、と眉根を寄せたが、男は無言のまま。ますます顔を顰めるものの、答えを濁す気にはなれず、鶯丸は聞き返した。
『……なぜ恨む必要がある』
『ふくれは美術刀として致命的だ。きっと、修復するのを諦めた研ぎ師もいたことだろう』
 言葉を淡々と返す割に、男が述べる内容は少しばかり手厳しい。
 かつて、刀身にふくれができた鶯丸の過去を指しているのだろう。湯呑みを持つ、鶯丸の手に力が入る。
『お前が研ぎ直されたのは明治だったな。であれば尚のこと。刀など不要になった時代だ。仮に修復されずにいたとしたら』
 お前の存在価値などなくなるだろう。そうはっきりと口にしなかったのは、鉄仮面の裏に隠れた、男の優しさだったのかもしれない。
 そう言われても、現に大修復を経てここにいるのだから、なんとも――。
 鶯丸が返す言葉に迷っていると、執務室から小さな溜息が聞こえた。
『人は誠に勝手なものだ。お前のような付喪神の力まで利用し、身勝手に築いた歴史を、身勝手に守ろうとしている。それに翻弄されるのはいつも、物言わぬ存在だ』
 鶯丸は男をまじまじと見つめた。普段心中を明かそうとしない男が、珍しく愚痴じみた恨み言を連ねている。しかも、人の子である男自身をも責めるような口振りだ。
 ふ、と口元に笑みを浮かべた鶯丸は目を細めた。
『……だが、俺を直したのもまた、人の子だぞ』
 男が筆を動かす手を止めた。視線は帳面に落としたまま、鶯丸の言葉に耳を傾けている。
『俺はただ、長い歴史の川を流れてきただけだ』
 細かいことは気にするな。今俺はここに在る。
 そう呟いた鶯丸は、少し冷えた湯呑みにそっと口づけた。口内の温度ほどになった緑茶が喉を下り、五臓六腑に染み渡る。身体が柔らかくなるような心地に、鶯丸は深く息を吐く。
『ずっと、人の子が嗜む茶を飲んでみたいと思っていた。なかなか美味いものだ。そう思える命があれば、それでいい』
 がたり、と音がした。文机に手をついて立ち上がった男が狩衣を揺らしながら、執務室の畳を滑るように歩み寄る。そして、縁側に腰掛ける鶯丸の隣へ跪き、鶯丸の前髪を掻き上げた。
『……幕府の苛烈な籤引き将軍は、功績を上げた己の弓馬師範に鶯太刀を与えた。その後家督相続の内紛を経て、小笠原家伝家の宝刀は流出。伯爵家に見出され、ようやく収まるべきところへ還れるかと思いきや、大修復せざるを得ない有様。まるで波乱の刃生だ』
 鉄仮面のようだと周りに誹そしられた整った顔立ちは、眉尻が下がり、今にも泣き出しそうにくしゃりと歪んでいた。
『だが、お前は蘇り、天皇へ献上された。それは、ただ運が良かったからなのか――いや、違う』
 己を見つめる眼差しに、鶯丸は息を飲む。
 その瞳は透き通るように深く遠く澄んでいて、静かに彼を包み込んだ。
『……鶯丸。お前は――』

その六

 体中がぽかぽかと暖かくなるような心地だった。まるで湯にでも浸かっているような感覚で、ずっとこのままでいたいと思いながら鶯丸は口元を緩めた。
 ――しかし。
「ん……」
 ぽたり。不意に冷たいなにかが頬に当たり、鶯丸は頬に手を当てた。
「……る、鶯丸!!」
 暗闇に現れた裂け目からぼんやりと光が差し込んだ。同時に、聞き覚えのある声がしたような気がして眉を顰める。
 この心地よい空間でもう少しまどろんでいたいと思っていたが、ぺちぺちと顔を叩く弱い刺激が鶯丸の眠りを妨げる。うう、と唸りながら、鶯丸は弱く瞬きをした。
「……お嬢?」
「よ、良か……」
 満天の星と大木を背に逆さまに映る、目を真っ赤に腫らしたぐちゃぐちゃな顔。完全に覚醒しないままに「何故泣いているんだ?」と首を傾げたときだった。
「……ばかっ」
「痛っ」
 ばちん、と両頬を強く叩く衝撃で、鶯丸はようやく覚醒した。ひりひりと痛む頬に添えられたままの彼女の手に、そっと己の手を添える。
「な、にをするんだ……」
 苦笑気味に鶯丸が呟いた。痛いじゃないか、といつもの調子で笑う彼の声を聞き、とうとう耐えきれなくなってしまったのだろう。彼女は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らしはじめた。
 太陽は既に沈み、秋の虫の鳴き声に入り混じり梟の声が聞こえる。山頂の境内の中、彼女は大きな一本杉の下に背を預けるように座っていた。彼女の膝に頭を乗せ仰向けで寝ているのだと気づき、鶯丸は彼女の表情を窺うように首を傾げた。
「お嬢が運んだのか」
 泣きじゃくる彼女からの返事はない。嗚咽混じりになにか呟いたような気もしたが、聞き取ることはできなかった。
 鶯丸は起き上がろうとしたものの、身体の節々が痛んで顔を顰める。だいぶ無理をした、と左脇腹に触れたところで気がついた。
「……傷が、」
 先ほどまで、確かに検非違使と刃を交えていたはずだった。
 しかし、深い傷を負っていたはずの脇腹は、傷どころか戦装束さえ綺麗なまま。弄るように己が腹をぺたぺたと触るも、戦う前となんら変わりない。横になったまま手探りで地べたを撫でると、彼の右手にこつんと本体の柄が当たった。彼女に当たらないようそっと持ち上げ、目の前に持ってきて目を凝らす。すると、戦闘中に認めた亀裂も刃こぼれも、僅かな傷すらもなくなっていた。
「まさか、お嬢が直したのか?」
「……っ、折れたかと思ったじゃない!! ばか!!」
 急に大声を上げた彼女に、鶯丸は思わず目を丸くした。
 きょとんとして彼女を見上げる鶯丸の視線が癪に障ったのだろう。顔を覆っていた両手を取り払った彼女は、じろりと彼を睨みつけた。
「相打ちに、なっ……呼びかけてもっ、答えないし……!」
 必死に紡がれた彼女の言葉から、なんとか経緯を汲み取った。
 最後の一体と対峙し、最初に地面に膝をついたのは鶯丸だった。脇腹の傷によって意識が朦朧とする彼に検非違使が襲いかかった瞬間、最後の気力を振り絞った鶯丸が刀を振るい、刺し違えるように倒れ込んだ。
 彼女が半狂乱で駆け寄ると、検非違使は絶命していたものの、鶯丸はまだ微かに息がある。彼女は彼の腕を取って身体を支えながらなんとか境内へ運び、ありったけの霊力を込めて手入れをした。
「そうか……」
 あの温かさは主ではなくお嬢の霊力だったのか、と、鶯丸は薄く笑った。身体の隅々まで行き渡るような柔らかさに包まれ、言葉の通り夢見心地だった。
 それにしても、懐かしい夢を見た。彼女の霊力を受けながら、かつての主の夢を見る。まるで二人の力が溶け合うかのような不思議な空間だったから、居心地が良かったのかもしれない。
 しかし、主が最後に言いかけた言葉の続きは、いったい――。
 もう一度続きを見ることはできないだろうか、と鶯丸が目を閉じようとしたとき、彼の鼻先にぽたりと雫が落ちた。
「最後まで……一緒にいてよ……」
「……泣くな、お嬢」
 鶯丸を見下ろし、未だ辛そうに顔を歪める彼女。その口から出た「最後」という言葉に、鶯丸は少しだけ引っかかりを覚えたが、彼にとって今はそれどころではなかった。
 心の奥深くで、人の子のような感情が堰を切ったように溢れ出す。一緒にいる意味が知りたい。一緒にいてほしい。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら願い求めてくる彼女のことを、心底愛しいと思えてしまう。
 鶯丸はそっと腕を伸ばし、彼女の後頭部に手を添えた。鶯丸の手に気づき薄く瞳を開けた彼女を強く引き寄せ、その唇を奪った。
「ん……ふ、ぅ……っ」
 触れた唇の端から、どちらともつかない吐息が漏れる。角度を変えて、何度も、何度も、想いを渡してゆく。ざらりとした熱い舌先を絡め、吸いつくように溶かし合う。今まで交わしてきた、慰めや徒な口づけとは明らかに違う。互いの心を重ねてひとつになった、熱く恍惚とした抱擁だった。
 やがて、自然に離れた二人の唇を銀の糸が伝った。途端に顔を真っ赤に染めた彼女が口元を手で覆うが、鶯丸がそれを止める。
「心配させて、すまなかった」
 目を細めて柔らかく笑う鶯丸に、彼女は「ほんとだよ」と口を尖らせた。言葉だけ受け取れば機嫌を損ねているように感じられる。が、頬を染めながら彷徨う視線がなんとも素直だ、と彼は喉の奥でくつくつと笑った。
 そんな鶯丸の態度が気に入らなかったらしい。彼女は彼の頬を両手で挟み逃げ道を封じると、今度は自ら唇を落とした。

* * *

 月が高く上がり、夜半の山を照らしていた。
 検非違使の気配はない。暑くも寒くもなく、風も凪いでいる。
 二人はしばらく、何者にも邪魔されない二人きりの時間を過ごしていた。互いの頬をくすぐったり、他愛ない話をしたり。それはとても、穏やかなひとときだった。
「……さて。この膝枕も惜しいが、そろそろ行くぞ」
 頬に添えられた彼女の手の感覚をひとしきり楽しんでいた鶯丸が、ゆっくりと上体を起こした。首の骨をぱきぽきと鳴らしながら立ち上がり、傍に置いたままであった本体の刀身を鞘に収める。 「行くって、どこへ」
 座ったまま不思議そうに首を傾げる彼女につられるように、鶯丸も首を傾げる。
「決まっているだろう。お嬢の父親のいる本丸だ」
 お嬢が連れてきたんじゃないか。
 いったいなにを言っているんだ、とばかりに笑いながら前を向く鶯丸に、彼女は目を丸くした。
「い、いの……?」
「なぜあの男がお嬢へ俺を遺したのか。――俺も知りたくなった」
 本丸の裏へと続く山道を見つめていた鶯丸は、肩越しに彼女に振り返る。
 きっと、その問いの答えは夢の最後で主が己に語りかけた言葉の続きにあるのだろう。
 鶯丸はそう思った。根拠はないが、かつての主の姿を見れば、その先の言葉を思い出せる気がしていた。
 飛びつくように追ってくるであろう彼女を待ちながら、鶯丸はそっと己の右目に触れた。

その七

 夜半の月明かりが切通しを照らしていた。足元は明るく、下山にそう時間はかからなかった。
 二人はとんとん拍子に山道を駆け下り、視界いっぱいに本丸の姿を捉えられる裏手まで近づいた。
 ――そこまでは、順調だった。
 おかしい。
 築地塀の向こう側に見えるのは、紛れもなく己が過ごした本丸である。しかし、鶯丸は眉根を寄せてそれを睨んだ。
 刀剣男士たちの気配がしないのだ。
 目を閉じ、身体の感覚を一点に集中させる。かつての主の霊力は確かに感じられるものの、賑やかだった仲間の気配は一切しない。それこそ、本丸内には当時の鶯丸自身もいるはずなのだが。
「気配がないのが気になるところだが、とりあえず敷地内に入って……お嬢?」
「……えっ?」
 鶯丸が振り返り、彼女に話しかけたときだった。
 彼女の呼吸は浅く、その額には汗が滲んでいる。そんなに急いたつもりもないのだが、と鶯丸は首を傾げた。
「どうした。苦しいか」
「ううん、ちょっと、息が切れただけ」
 小さく首を振る彼女に、鶯丸は根拠のない不安に襲われた。闇に溶けてしまいそうな黒い髪に触れると、彼女は弱々しく微笑んだ。
 どこか様子がおかしいのは本丸だけではない。直感的にそう感じた鶯丸がそっと細い肩を抱き寄せると、彼女は瞳を潤ませた。
「顔色も悪い。お嬢、やはり今日のところは引き上げるぞ」
「だめ……せっかくここまできたんだから」
「しかし、」
「しっ」
 不意に、彼女がきょろきょろと辺りを見渡した。
「うぐさん、なにか話し声が……」
「ん」
 彼女を抱き寄せたまま、鶯丸は築地塀の向こうへ意識を集中させた。
 秋の訪れを告げる虫の声。背後で風に揺れる木の梢。それらに混じり微かに聞こえた人の声に、鶯丸は目を見開いた。
「……主」
 二人は目を合わせ、頷いた。塀の向こう側には間違いなく、二人が知りたい真実の鍵となる男がいる。
 かつての主の声に、鶯丸も引き返す考えを捨てて築地塀の屋根を仰ぐ。とにかく、本丸内に入らないことには、話が先に進まない。
「でも、どうやって中に……わっ!?」
 正門は閉まっているだろうから勝手口を使おう、と呟く彼女を無視した鶯丸は、彼女の膝裏に手を差し込むと横抱きに持ち上げた。突然の、所謂「お姫様だっこ」に、彼女は慌てて鶯丸の首元に手を伸ばしてしがみつく。いきなりなにを、と目を白黒させる彼女を尻目に、彼は懐かしそうに鶸萌葱の瞳を和ませた。
「お嬢……随分と重くな痛っ」
 幼い頃はよくこの本丸の中庭で「高い高い」と抱き上げて遊んでやったものだが。
 そう続けるつもりだった彼からすれば過去を懐かしんでいただけなのだが、どうにもこうにも、年頃の女性への言葉選びが宜しくない。言い終える前にぺちんと彼女の平手を食らってしまった鶯丸は、頭上に大量の疑問符を浮かべて眉根を寄せた。
「……何故」
「そういうときは『大きくなった』って言うの!」
「主に見つかる、静かにしてくれ」
「聞いて!」
 ぎゃあぎゃあと騒ぐ彼女に「そのまま掴まっていろ」と溜息をついた鶯丸は、己の脚に力を込め、反動をつけて地面を蹴り上げた。細身であるにもかかわらず、ばねの如くしなやかな脚力で築地塀を駆けるように跳ね上がる。
「わ……っ」
「……明かりがついていないな」
 築地塀の屋根に着地した鶯丸は、彼女を抱いたまま片膝をつき、姿勢を低くした。
 そこは、少し広い中庭の隅にある柿の木の側だった。縁側が開け放されたまま静まりかえっている。行灯の明かりもなく、月明かりが白く本丸内を照らすのみ。
 確かに声が聞こえたのだが、と首を傾げる鶯丸に、彼女は「あ」と小さな声を上げる。
「……うぐさん。あそこ」
 鶯丸は彼女が指さす先を視線で追った。だいぶ暗闇に慣れてきた目を凝らすと、縁側をふたつの影が並んで渡っていた。それはそのまま、中庭の正面の部屋へ入っていく。
「あれは……主と、」
 明石国行。
 主の最期を共にした刀の名前を呟いた鶯丸が、言葉に詰まる。
『まず、俺と明石以外の他の刀の顕現を解いた』
 彼女へ語ったときの自身の発言を思い出し、鶯丸は首を横に振った。
 そうだ。あのとき確かに、主は己と明石の二振りを除いた男士たちの顕現を解いたはずだ。
 もしも、今この時点で既に他の刀剣男士たちが刀本体へと戻っていたのだとしたら。
 ざわめく心を抑えきれずに、彼は唇を噛む。記憶を手繰り寄せても、当時のことがどうしても思い出せない。まだ記憶が不完全だというのか、それとも――。
「……俺は、どこにいたんだ……」
「うぐさん、大丈夫……?」
 腕の中から聞こえた声に、鶯丸は我に返った。抱かれたまま心配そうに己を見上げる彼女へ答える代わりに、その額に軽く唇を落とす。鶯丸がわざと、ちゅ、と音を立てると、不安そうだった彼女の顔はみるみるうちに赤く染まった。月に照らされているとはいえ、暗闇でもわかるほどの紅潮ぶりに彼は思わず肩を震わせて笑う。
「初心だなぁ」
「もうっ」
「二人が入ったのは執務室だな。隣室にまわるぞ」
 恥ずかしそうに頬を膨らませる彼女へ、鶯丸はもう一度口づけを贈った。そして、横抱きにしたままの彼女の身体へ負担をかけないよう、静かに中庭へ降り立った。

その八

 本丸内へ忍び込んだ二人は、そろりそろりと廊下に足を滑らせた。
 鶯丸は彼女の呼吸がおかしいことを未だ気にかけていた。しかし、当の本人に「はやく」と急かされてしまっては仕方ない。彼女の前に立ち歩みを進めると、やがて明かりが漏れる部屋の手前に差しかかった。
 薄らと聞こえてくる二人分の話し声に、鶯丸と彼女の心拍数が上がる。
「確か主は隣の部屋を書庫として扱っていたはずだ。そこから執務室を覗くぞ」
「うん……!」
 このまま廊下で聞き耳を立てるには、些か距離が遠い。目を合わせて頷き合った鶯丸と彼女は、物音を立てないよう、隣室の障子戸に手をかけた。
「!」
「うぐさん、これ……」
 障子戸を開けたその先の光景に、鶯丸は目を見張った。
 埃臭い書簡の山は想定していた。しかし、八畳間の中央にある卓に並べられていたのは、短刀、脇差。その横に積まれた打刀、太刀。立てかけてあるのは、槍と薙刀である。
 男士たちの気配がなかったのは、既に顕現を解かれていたからだったのか。
 目を滑らせるように室内を見渡し、鶯丸は息を飲む。
 一期一振。江雪左文字。鶴丸国永。そして、その横にあるのは――。
「この刀、うぐさんじゃ……?」
 黒鞘の太刀拵えを恐る恐る指差した彼女が、口を噤んだ鶯丸の言葉を代弁するように呟いた。
「……ああ。俺だ」
 どういうことだ、と鶯丸が唇を噛みしめたときだった。
『ぎゃあ、うぎゃあ……』
『おーおー。どうしたん』
 一枚の襖を隔てた隣の執務室から、赤子の鳴き声と独特の話し方をする声が聞こえた。思いのほか近くにあるそれに、二人の身体がぴしりと強張る。
『ぎょーさん泣きよる。ほんま、かいらしいなぁ……誰かさんに似んと』
 存在がばれてしまったかと思い身を縮めたものの、どうやらそうではないらしい。
 息を潜めつつ、鶯丸は襖戸に身体を寄せて腰を下ろした。「そんなに近寄るの?」と目を丸くする彼女の手を引き脚の間に座らせ、横から抱きしめるように抱えこむ。初めは不安そうだった彼女も、鶯丸の胸の中で安心したのであろう。少し甘えるように、彼女はそっと鶯丸の胸に寄りかかった。
 僅かに明かりが漏れる襖戸の隙間から隣の部屋を覗き込むと、白いワイシャツの背中が間近に見える。それが、揺りかごを揺らしながら笑う明石だと認識できるまで、そう時間はかからなかった。
「ね、ねえうぐさん……あれって」
「ああ、お嬢だ」
 鶯丸の腕の中に抱かれた彼女が、彼の服の裾を引いて尋ねる。どうやら明石の隣の揺りかごで精一杯に泣く、赤子の存在が気になっただけらしい。彼が微笑みながら頷くと、彼女はそわそわした素振りで襖の隙間に顔を近づけた。
『でも、ええんですか? ほんまに自分で。歌仙さんの方が適任だったんとちゃいます?』
 明石は恐らく、翌日政府機関へ赴く際に同行させる近侍のことを言っているのだろう。ごくりと喉を鳴らす鶯丸の心の機微を感じ取った彼女が、不安そうに彼を見上げる。
「うぐさん……」
『不満か』
 彼女がそっと鶯丸の頬に手を伸ばしたとき、明石とは違う、淡々とした抑揚のない声が響いた。
 落ち着きのある澄んだ声色。それは聞く者たちの緊張を誘うようで、それでいてどこか安心もするような、不思議な雰囲気を帯びている。
「お、とうさん……」
 手を止め、食い入るように襖の向こう側を見つめる。ごくり、と唾を飲む彼女は男の姿を捉えて、一瞬複雑そうな色を浮かべた。
 その様子に、鶯丸は眉根を寄せる。襖一枚隔てた先に座る狩衣を纏った精悍な面立ちの男は、今、彼女と同じ年頃だ。父と言われても、懐かしさより違和感の方を強く覚えるのだろう。
 主が生きていれば、きっと今頃、成長した彼女の姿に目を細めていたに違いないのだが。己が彼女に近づこうものなら鋭く睨み付けられていたかもしれない。
 感傷にふける鶯丸の腕の中で、彼女は口元に手を当て、嗚咽が漏れるのを必死に堪えていた。その瞳から流れる雫はその顎を伝い、鶯丸の胸元を濡らす。それでもなお、彼女は現実から顔を背けることなく、自身の父親の姿をその目に強く焼きつけるように見つめ続けている。
 鶯丸は無言のまま、彼女を抱きしめる腕にそっと力を込めた。
『ああ、いやいや。別に面倒くさい言うてるんやないですよ。でも、主はんがそないな大事な場所連れて行かはるなら、第一部隊でも歌仙はん……せや。鶯丸はんやろなあと』
「!」
 びくり、と鶯丸の肩が跳ねた。
 己の名前が挙がったことに、胸の奥がざわざわとうるさく音を立てはじめる。それを鎮めるように大きく息を吐きながら、鶯丸は瞳を襖の隙間へ近づけた。
『――明石。すまない』
 そのときだった。
 襖の向こうで、男が畳に手をついた。
 明石に深々と頭を下げるその姿を、鶯丸は呆然と見つめる。傍若無人であったというわけではないのだが、近侍を務めていたときでも男が頭を下げる場面になど遭遇したことがない。
『……なんです? 明日は自分が畑当番や、言うつもりですか?』
 少しおどけたように肩を竦める明石の表情は読めないものの、心なしか語尾が震えている。やはり明石も鶯丸と同様、男の行動が信じ難いのだろう。
 やがてゆっくりと上体を起こした男は、真っ直ぐな瞳を明石へ向けた。
『お前には、すべてを話そう』
 男は、明石に対して語りかけているはずである。だが、何故か彼の言葉が襖を通り越して自身へ向けられているような気がして、鶯丸は「わかった」と小さく呟いた。

その九

『明日、私は政府機関の連中から消されるだろう』
 衝撃的な推測をあっさりと語る声に、鶯丸は瞳を閉じた。
 そうだった。この男はそういう奴だった。
 どんな喜ばしいことであろうと残酷な現実であろうと、まるで他人ごとのように淡々と語るのだ。たとえそれが、彼自身の運命であろうとも。
『たかが、人の子一人や』
 明石は肩を竦めたが、男は小さく首を横に振った。
『決して大袈裟ではない。たとえ後世に影響がなかろうと、時間遡行軍と対峙すべき審神者である私が、歴史を改変したこと自体問題だ。それだけの罪を犯した自覚はある』
 男は揺りかごに手を伸ばし、ゆらゆらと揺らした。
『……恐らくこの子も、殺される』
 そう言って眉根を寄せる彼の心など露知らず、幼い彼女はきゃあきゃあと笑い声を上げる。
 やがて男は顔を上げ、きっぱりと言い放った。
『だから私は、これから一晩かけて私の持つありったけの霊力をこの子に移す』
「!」
 その言葉に、鶯丸は思わず反応してしまいそうな口元を押さえた。そんな彼の驚愕を代弁するかの如く、明石が小さく首を傾げる。
『だから……て、話が見えへん。それに……そないなえらいことできるんですか?』
 怪訝そうな明石の声に、男は揺りかごを揺らす手を止める。ほんの僅かだが、口端を吊り上げたように見えた。
『政府は私の霊力を道具として見ている。この豊富な力は惜しむに値すると自負している』
『……はー、参った。主はん、政府のお偉いさんと取引する気ですか』
 明石は大袈裟に首を横に振り、深く溜息をついた。両手を後ろについて天井を仰ぎ、絶句する。
「……そういうことだったのか」
 察しが良いのは明石だけではなかった。
 鶯丸は後頭部を強く殴られたような衝撃を受けた。彼はすべて理解できてしまったのだ。
 このまま男がなにもせずに政府機関へ赴くとしたら、きっとお咎めなしになるだろう。男の言うとおり、強い霊力を持つ彼は殺すに惜しい存在だ。
 しかし、審神者が歴史を改ざんしたという事実はいずれ明るみになる。そうなる前に、政府機関が「歴史改変の事実などなかった」と、事実を揉み消しにかかるのは目に見えている。
 そうなると、消されるのは彼女の方だろう。彼女が生きていた事実を葬れば、なにもかもなかったことになる。仮に、審神者が歴史改変に加担したという噂が広がってしまったとしても、彼女を処刑していれば「政府機関は歴史の改変を許さない」という見せしめになる。
『察しが良くて助かる』
 男は目を伏せたまま、明石に対して淡々と返した。
 長引く時間遡行軍との戦い。勢力をつけたい政府機関が必要としているのは、男の霊力であって、男ではない。だからこそ、男の霊力を彼女へ与えてしまえば、彼女は最悪政府に利用されたとしても殺されずに命は助かる。男はそう考えていたのだろう。
 鶯丸は目頭を押さえ、深く俯いた。息苦しさを覚えると同時に、鼻の奥がつんとする。奥歯が震えはじめ、口元に手を当てたままゆっくりと呼吸を整えた。
『えろう驚きました。主はんがここまで、この子を可愛がっとったとは』
 明石は身体を起こして膝立ちになった。揺りかごの中に手を入れて彼女を持ち上げ、高く掲げる。すると、構ってもらえたのが嬉しかったのか彼女はきゃっきゃと高い声を上げ、しわくちゃの顔を更に綻ばせた。
『――歴史に翻弄されるのは、いつの時代も物言えぬ者たちだ』
「主……」
 鶯丸は顔を歪めた。夢で見た、かつての主の台詞と重なる。夢の中では鶯丸を指していたその言葉は、今は彼女のことを指しているのであろう。「私がこの子の人生を狂わせてしまったのだが」と溜息をつく男の苦笑いに、鶯丸の胸が痛む。
『ただし、私の霊力にも限りがある。すべてをこの子に与えたとしても、本来生きているはずのない時代の圧力には耐えられないだろう』
 明石の様子を黙って静かに見守っていた男は、やがて小さく口を開いた。
 ――嫌な予感がする。
 端的にものを言う男が歯切れの悪い言い方をしている。たったそれだけのことなのに、心臓は不穏なまでに騒がしく音を鳴らし、息が詰まりそうだった。途端に顔色の悪い彼女のことが気になりはじめたが、進んでゆく男と明石の会話に耳を傾けざるを得ない。
『……と、言いますと?』
『持ちこたえられたとしても、今の私と同じ齢くらいまでだ』
 鶯丸の背筋がぞわりと粟立った。
 うるさく脈打つ鼓動が聴覚の邪魔をする。ごくり、と唾を飲む喉がやけに乾いていて、熱く焼けるようだった。
「お嬢……」
 鶯丸の声にならない声に反応した彼女は、彼を見上げ、今にも泣き出しそうな顔で笑っている。
『主はんと同じ言いますと、』
『……二十年』
 襖の向こうで男が目を瞑るのと同時に、鶯丸は彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
 何故、彼女が政府から消されなかったのか。
 何故、彼女が二十年もの間、時間圧に耐えられていたのか。
 何故、彼女が検非違使に狙われるのか。
 政府機関のガゼボで彼女に打ち明けたときに見出せなかった答えが、今、皮肉な事実を告げながら明らかになってゆく。
『それ以上は、この子次第だ』
 男は眉間に皺を寄せたまま俯いた。
 ――この子が二十歳になったらすべてを話せ。その後はお前の刃生尽きるまで、全力でこの子を守れ。
 鶯丸は、男が処刑される前に己に遺した言葉を思い出していた。
 襖戸の向こう側にいる幼い彼女が時間圧の影響を受けずに存在できているのは、男がその強い霊力を彼女に少しずつ分け与えていたからなのだろう。男と彼女の霊力の波長が似ているのもこれで説明がつく。
 そしてその加護があったからこそ、二十年もの間、彼女は検非違使の目を掻い潜ることができていたのかもしれない。もしも、男の霊力の枯渇がきっかけで、彼女の存在が際立ちはじめたのだとしたら。時代を越えて存在し続けようとする彼女が二十歳を迎えるこのタイミングで、検非違使に目をつけられはじめたのだとしても、おかしくはない。
 守れというのはそういうことか、と鶯丸は顔を歪めた。男が自身の全霊力を彼女に授けたとしても、それはいずれ底をつく。その期限は男の生きた年齢までであり、それ以上は――。
 血が滲み出るほどに、鶯丸は唇を強く、強く噛みしめた。 「……お嬢、気づいていたのか」
「薬研の傷を治せなかったときから……霊力枯渇のことは、なんとなく……」
 その言葉は鋭い刃だった。まるで、胸を貫かれたような心地だった。呼吸が苦しく張り裂けそうな心臓の痛みに、鶯丸は目を瞑る。
 だから彼女は「審神者を続けられない」と言ったのか。「最後まで一緒にいて」という言葉の裏の真実は、これか。
 彼女の両肩を揺さぶるように掴み、ぎりりと歯を食いしばる。
「お嬢、何故先の検非違使との戦いで俺を治した。何故霊力を使った。どうして、寿命を縮めるようなことをした……何故……!」
「ごめん……ごめんね、うぐさん……」
 震える唇から鶯丸の悲痛な叫びが零れ出す。そっと差し伸べられた彼女の両手が、鶯丸の頬を包む。火照る肌に添えられた手の平は、とても冷たかった。
『極力霊力を温存するため、少し早いがお前以外の全ての刀の顕現を解いた』
 隙間から覗いた男は、相変わらず事も無げな顔をしていた。そのまま明石にあやされて笑う幼い彼女を見ていた男は、やがて真一文字に結んだ口を開き、小さく息を吸った。
『今はいったん顕現を解いて刀の状態に戻しているが、鶯丸の記憶を一時的に消し、彼女の傍に遺そうと思う。――この子が自分の未来を決めなければならない、そのときまで』
 不意に耳に入った己の名前に、鶯丸は胸を衝かれた。
『鶯丸はんを、ですか』
『あの場にいなかったお前は知らないだろうが』
 言葉を切った男が、明石から幼い彼女を受け取る。やはり、父親の腕の中が一番なのだろうか。にこにこと笑みを零す姿は大人しく、男の腕の中で揺れていた。
 男は初めて目を細めた。自身の子から目を離す一分一秒すら惜しい。そう感じられるような、父親の表情だった。
『この子を先に救ったのは私ではない。鶯丸だ』
 そうなの?と腕の中で首を傾げる彼女の視線を感じながら、二十年前の記憶を必死に遡る。
「……あ」
 確かにそうだ、と鶯丸は眉を顰めた。無意識に己の本体を放り出してまで彼女と彼女の母親を検非違使から守ったのは、紛れもない己自身なのだ。
『歌仙には落ち着くまでの間、政府付きとなった刀たちを取り纏めてもらう必要がある』
 だから歌仙を連れて行くことは叶わない、と静かに首を振る男に、明石は小さく笑みを零した。
『それで、自分ですか』
『……お前には近侍として私の側に居てもらう。いいか。明日私の近侍を務めるということは、お前を政府付きの刀にすることはできない。つまり、』
『主はんの刀として、刀解される覚悟はとうにできてます』
 珍しく言い淀む男の言葉を遮り、明石は口端を吊り上げた。「最後くらい仕事せぇへんと」と笑う姿に、かつて共に出陣していた頃の記憶が蘇り、鶯丸の心の端を責めてゆく。
 ああ、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。あのとき、己が彼女を助けてしまった所為なのだろうか。
 鶯丸は溜息をつき、体中を渦巻くやり場のない想いを捻り潰すように、己の胸元を鷲掴みにする。それは後悔にも懺悔にも似た、正解に辿り着かない問答。
 あのとき母娘を助けなければ、今頃主の元で時間遡行軍と刃を交える日々を送っていたはずだ。しかし、あのとき母娘を助けなければ、彼女を胸に抱いたときの温かさを知ることもなかったのだ。
『自分が認めた主君の最後の一振りになれるなんて、こないな光栄なことありまへん。でも少し……特に、鶯丸はんには悪いなぁ思います』
『……そうだな。明日、鶯丸を連れていきたくなかったのかと聞かれれば、正直言葉に詰まるところはある。だが、この子に遺す刀は鶯丸だと決めていた』
 申し訳なさそうに肩を竦めた明石の言葉に、男は静かに目を伏せる。思わず、鶯丸と彼女は顔を見合わせた。
『いずれこの子には現実を受け止めなければならないときが来る。そのときに支えになってやれるのは鶯丸だ』
『それは、鶯丸はんが彼女を助けたから……とか、そういう理由ですか?』
 無駄なことはしない男であるとは言え、根拠が見えない。明石はそう言いたかったのだろう。彼女に遺すのは鶯丸でなければならない、と言い放つ男に疑問符を投げかける。
 やがて、男は伏せていた顔を上げた。その瞬間、息を潜めて隣の部屋の様子を窺っていた鶯丸は大きく目を見開いた。
『鶯丸は、歴史に愛された刀だ』
 真っ直ぐに前を見据える男と、視線が絡む。
 その双眸は、いつか見た夢と同じ光。そして、この言葉こそ夢の続きだった。
『私も所詮人の子。目の前で消えそうな命を放っておけずに重罪を犯した。だが、後悔はしていない。犯した過ちもまた、歴史の一部になる』
 明石に語りかけているはずの言葉が、いつの間にか襖戸をするりと通り抜け、鶯丸の心に入り込む。
 きっとこれは己に向けられた言葉なのだと、鶯丸は唇を噛みしめる。
『人の歴史は、良くも悪くも人が織りなし紡ぐものだ。果てなく続く時代の流れに翻弄されながらも、在るべきところに在るべき姿で還れた鶯丸ならば、この子が選択する未来をこの子の隣で見守り続けてくれるだろう』
 鶯丸の心に、ぽつり、ぽつりと温かな明かりが灯る。一緒に過ごした間には知り得もしなかった主の心に触れ、言葉を失った彼の視界がぼんやりと歪んでゆく。
 かつての主から視線を外せずにいる彼の目尻に、彼女の細い指先が触れる。それを伝い落ちた雫を掬い上げた彼女は、ぺろりと舌先で舐め取った。
「しょっぱい、ね」
 泣きそうな顔で笑う彼女を、彼は強く抱きしめた。後頭部に手を這わし、押し潰してしまいそうなほどに力を込める。己の背中におずおずと回された彼女の優しさに耐えきれず、鶯丸は彼女の肩に顔を埋めた。
『人に愛された刀は、人を愛せる刀だ。鶯丸ならきっと、この子の歴史を受け入れられる』
 かつての主が「少し喋り過ぎたか」と襖の奥で薄く笑っていたことにも気づかず、二人はずっと、互いの存在を認めあうかのように抱きあっていた。
 いつまでも、いつまでも抱きあっていた。