第三幕 「笑顔の裏」

 結局、覚悟を問うたところで、俺には主を救うことは出来なかった。
 最後にそう締め括った鶯丸が顔を上げる。春雷はとうに止み、遠くの空では厚い雲の切れ目から幾筋もの光が降り注いでいた。
「……雨が上がったな」
 政府機関の広大な敷地内の庭に射すそれが光明であればと、鶯丸は切に願った。しかし、彼らが座るベンチのあるガゼボの真上はどんよりと、今にも崩れだしそうに影を落とす。
 腕の中で華奢な肩が震えている。鶯丸の胸に額を押しつける、俯いたままの彼女はなにも言わず、なにも言えず。二人の沈黙を徒に弄ぶ冷たい風が、代わりにひゅるりと音を立てた。二人がガゼボに留まり続け、だいぶ時間も経っている。このままでは、彼女の身体が冷えるのは明白だ。
「お嬢、風邪を引いてしまう。そろそろ……」
 鶯丸が彼女の両肩に手を添え、引き離そうとしたときだった。
「い……」
「い?」
「いやぁー驚いた驚いた!!」
 首を傾げ、反復するように言った鶯丸の言葉を掻き消し、彼女は勢いよく顔を上げる。
「まさか私、過去から来た人間だったなんて!」
「……っ」
 彼女は笑っていた。普段よりもやや高い声と、肩を竦める大袈裟な素振り。彼女がすぐにでも泣き出してしまうかと思っていた鶯丸は想定外の反応に面食らい、言葉に詰まる。
「おかしいと思ってたんだよね。知り合いの審神者たちの初期刀はみんな打刀だしさ。なんで私だけうぐさんなんだろうって」
「お、嬢……」
 そういうわけだったのか、と笑い飛ばす彼女の声が震えている。
 長年彼女を見てきた鶯丸にとって、これが彼女の精一杯の虚勢なのだと察するのは容易いことだった。
 彼女はきっと、傷つき苦しんでいるのは彼女自身だけではないということに気がついたのだろう。己の主を失うとわかっていながらどうすることも出来なかった。そんな辛い過去を自らの口で語る、彼の悔しさ、無念さに。
 鶯丸は眉間に皺を寄せ、顔を歪めた。検非違使が本丸を襲ったときもそうだ。「強がりはぽんぽんと口に出すのに、本当に大事で伝えたいことや欲しいものは言葉にできないまま」なのだ。そうして今も、後悔を重ねようとしている。
 彼女に強がりを吐かせてしまっているのは、俺か。
 激しく胸が痛み俯く鶯丸に、無理を押した彼女の明るい声が追い打ちをかける。それは、罵詈雑言の批難を浴びる以上に苦痛な、叱責だった。
「あっ、ねえねえ、私どの時代から来たか、わかる? もしかして加州や兼さんよりも年上だったりして」
「……お嬢」
「嫌だな、そんな顔して。私、全然だいじょ」
「お嬢!」
 鶯丸は顔を上げ、両手で強く彼女の頬を挟んだ。ぱちんと乾いた音が辺りに響く。その勢いに肩を震わせた彼女の目は、潤みはじめていた。
 彼女にこれ以上強がりを言わせたくない。そう感じた彼の指先に、力が入る。
「嘘つきだ」
 戦場で発するような力強い声が、ガゼボを通り抜けて静かな庭へ吸い込まれてゆく。
 こつり。鶯丸と彼女の額が触れた。ぶつかったところからじんわりと小さな痛みが広がる。視界には互いの姿以外に入り込む余地がないほど、彼の瞳は彼女だけを捕らえて離さない。彼女の瞳にも、彼の情けなく笑う顔が映るのみ。
「嘘なんて、ついて、ない……」
「ならば」
 頬を挟む両手から伝わる、彼女の熱。温かく柔らかいそれをふにふにと揉むように撫でる。彼がそのまま指先を目尻に這わすと、彼女は反射的に目を瞑った。その拍子にぽろりと零れた雫が、彼の指先を伝って落ちる。
「これはどうした」
「……それは、」
「しょっぱい、な」
 親指に垂れたそれをぺろりと舐めて、鶯丸は苦笑した。すると、みるみるうちに彼女の顔が歪み、大粒の涙がぼろぼろと零れだした。頬、顎、首筋。幾つもの筋をつくって流れる涙が、白いワイシャツへと吸い込まれてゆく。
「……検非違使が本丸に出たのは、歴史の均衡を保つために私を粛正しようとしていたから、だよね……。だから……薬研、とか……私の霊力が強く馴染んだ刀から、襲われ……っ」
 唇を噛みしめ泣くまいと耐えていただけに、一度箍が外れてしまった悲しみは止まらない。彼女は鶯丸の襟ぐりにしがみつき、必死に嗚咽を殺した。
「どうしようっ、うぐ……! 私、私大変な、まさか……っ、知らなくて、私が、私が歴史の、歪んだ歴史の遺物だったなんて……」
「……っ」
 くぐもった、悲痛な叫びが胸を刺す。
 鶯丸はそれ以上、彼女が彼女自身の存在を否定する様を見ていられなかった。堪らずその後頭部に手を回し、少しの隙も与えないほどに強く、己の胸に押しつける。
 彼はただ、過去に与えられた主命を果たしたにすぎない。彼女が二十歳になったら知り得る全ての事実を話す。それが、鶯丸に近侍を務めさせていた主の切願。果たした暁には、安堵が待ち受けているはずだった。
 ――しかし、この痛みはなんだ。
 咎めるような痛みに貫かれ、鶯丸は審神者部屋の光景を思いだした。夜更かしで短くなった燭台の蝋燭も、明け方に散乱したのであろう筆記用具も。全ては彼女に与えられた「時間遡行軍による歴史改変を防ぐ」という任務のため。使命を全うしたい、生真面目な彼女の努力の跡だ。
 それがどうだ。防ぐどころか、彼女自身が歪んだ歴史を生む要因であった。彼女の大切な刀剣男士たちまで巻き込んでしまったのだ。
 過去を語れば、彼女が少なからず傷つくだろうとわかっていた。それでもなお、これが己に与えられた任務だと、残された刀が果たすべき役目だと信じ、口を開いたのは彼自身だ。
 ああ、言わなければ良かった。
 鶯丸の心のどこかで絶望にも似た強い後悔が渦を巻く。もう遅い。そう思いつつ、鶯丸は掻き抱く両腕にありったけの力を込める。そうでもしなければ、腕の中の存在が泡のように消えてしまいそうに思えた。
「もう……審神者なんて、続けられないよ……」
 咽び泣く彼女に、してやれることはなにもない。
 主。君は自分の娘を苦しめるために、二十歳になったら全てを告げろと言ったのか。
 震える背中を擦りながら、ぎりりと奥歯を噛みしめる。
 俺は、彼女の存在を否定するために遺されたというのか。違うだろう。そうではないだろう――。
 答えのない問いが鶯丸を責め立てる。時折、痛いほどに冷たい北風が腕の中で震える彼女を刺してゆく。せめて、寒い思いをさせないように。とん、とん、と彼女の鼓動に合わせて、鶯丸は細い背中を撫で続けた。
 それが、少しの慰めにもならないと知っていながら。

その二

「先ほど廊下ですれ違ったあの男は、二十年前に主と俺たちの本丸の面倒を見ていた政府役人だ」
 彼女の嗚咽が落ち着いても、鶯丸はその抱擁を解かなかった。髪、額、頬、肩。静かに唇を滑らせては、ゆっくりと背中を撫で続ける。
「……主への処罰を言い渡したのがあの初老の男だ」
 彼の主への処罰と彼女の処遇が決まる、政府機関へ赴いた運命の日。裁判前、彼の主と二言三言交わした政府役人の男が、鶯丸へと手を伸ばした。その指先が額に触れて視界がぐらりと歪んだ――そう言いながら、鶯丸は眉根を寄せた。
「主と明石を連れて審議部屋へ入る、あの男の後ろ姿を覚えている。何故お前がと思わずにはいられなかった。……それまで懇意にしてくれていたことを知っていれば、なおのこと」
 きっと、そのとき記憶を消去されたのだろう。取り乱してしまってすまなかった。
 そう苦笑いする鶯丸は、焦点の定まらない瞳で空を見た。主のことまで忘れてしまっているとも知らずに過ごした日々は、己にとって一体なんだったのだろうか。自虐的な感情にも似た虚しさが、彼の胸の内を占めてゆく。
「……ねえ、うぐさん」
「なんだ」
 ぐずぐずと鼻水を啜りながら己を呼ぶ声に、鶯丸は撫でる手を止めた。視線を腕の中に移し、泣いて上気した頬に手を触れてみる。すると、彼の手を包み込むように、彼女は小さな手の平をそっと重ねてきた。
「貴方がこの二十年、記憶を失っててよかった」
「……は」
 思いがけない言葉に、鶯丸は目を丸くした。そんな彼とは対照的に淡く笑う彼女は、目を赤く腫らし、指先を冷やし。それでもなお、凜とした声で鶸萌葱の瞳に語りかける。
「過去を覚えたままだとしたら、うぐさんはきっと……ずっと苦しみ続けることになっていたと思う」
 たとえ私と過ごした数時間でも構わない。それがあなたにとって安息のひとときだったなら――。
 ごくり、と唾を飲む。全身の毛がぞわりと逆立つようだった。鶯丸の背筋を駆け抜けるそれは、まるで一種の畏怖にも似た感覚。
 あまりにも綺麗な人の子だった。身を捩るような辛さの中にありながら、それでも鶯丸の平穏を願う、彼女の透き通るような美しさに、彼は言葉を失った。
「お嬢……」
「私はあの役人さんに少しだけ感謝してる。……大好きな刀ひとが悲しむ姿を見るのは、私も辛いよ」
 指先を握って、微笑んで。傷つく刀にありったけの愛情を伝えようとする彼女の心に触れ、鶯丸の胸が激しく痛む。
「……すまない」
 滑らかな頬から手を外し、重ねられていた彼女の手を掴み直した。再び流れ落ちた彼女の目尻の涙をそっと拭い、その頬を両手で優しく挟み顔を近づける。慈しみの光が溢れる瞳に映る彼の顔は、少し歪んでいた。
「俺は、お嬢の実の母親も、育ての父親になるはずだった主も守れなかった」
 だからお嬢は、お嬢のことだけは。
 そう言いかけた言葉を飲み込み、鶯丸はそっと彼女に口づけた。
 離しては重ね、離しては、重ね。角度を変えて、鶯丸は彼女の悲しみも優しさも全て食べてゆく。
「あ、鶯……ん……」
 触れる唇の隙間から吐息が零れはじめる。鶯丸の胸に添えていた彼女の両手がそっと外れ、彼の背に添えられた。おずおずと差し出されたその手にもやがて力が入り、消えまいと鶯丸の身体にしがみつく。
 自分自身の存在を確かめるように、互いの辛さを貪りあうように。鶯丸と彼女はいつまでも唇を重ねていた。

その三

 彼女は真実を隠した。
 鶯丸と彼女が本丸に戻ったのち、彼女は男士たちを広間に集めた。「出陣した刀剣男士たちを追って検非違使が本丸へ出現する事例も、僅かながらあるらしい」と言い渡し、ほとぼりが冷めるまでの間は出陣を自粛するように告げた。
 はじめは彼らの間にも動揺が走った。が、それ以上に「傷ついた薬研に休んでもらうため、今後は鶯丸に補佐してもらう」と、彼女がそれまで固定にしていた近侍を変更したことの方により驚いたようだった。是非自分を近侍に、と激しく主張する長谷部や亀甲を宥め、その場はお開きとなったのだった。
「……でも、良かったのかなぁ」
 彼女は重い息を吐き出した。寝間着の浴衣の肩へ、湯上がり直後の髪の毛から温い水が滴り落ちる。
「案ずるな。嘘をついたわけじゃない」
「あいたたた! ちょ、もっと優しく……!」
 心ここに在らずという風な彼女から手拭いを奪った鶯丸は彼女を脚の間に置き、自分の方を向かせて座らせた。そして、わしゃわしゃと乱雑に彼女の髪の毛を拭きはじめる。就寝準備が整えられた敷き布団の上で繰り広げられる、いつもの光景だ。
「……それにしても、解せないんだよね」
 彼女の言葉に、鶯丸の手がぴたりと止まった。
 何故、この時機に検非違使が現れたのか。彼女の父親が彼女を過去から連れてきた時点で、本丸に出現していてもおかしくない。彼女が小さく唸り、溜息をつく。
「どうして今になって……」
 鶯丸は彼女をくるりと反転させ、その肩に手拭いを掛けた。眉を顰めながら、考え込む黒髪に櫛を通す。
 そのことについては鶯丸も疑問に感じていた。それまでだって、一度たりとも検非違使が本丸に現れたことはなかったのだ。何故今頃襲われたのか。過去の記憶を取り戻したとはいえ、解決の糸口がない疑問には閉口せざるをえない。
「……あと、どうして私、まだ存在しているんだろう……って、ずっと考えてた」
「存在?」
「うん……。小さい頃……審神者修行したときにね、政府の役人が言ってた。私たち審神者は霊力を使えば刀剣男士を過去へ送り出すと同時に、自らも過去へ赴くことができる」
 肩まで伸びた髪を梳かす手を止めて、鶯丸がその言葉に耳を傾ける。
「でも、私たち人の子には【時間圧】の壁があってね。本来、その時代に生きる人間じゃなければ、長い間存在できないはずなの」
 実際、彼女が彼ら刀剣男士の出陣に同行したのは一度や二度ではない。任務の内容に応じて、必要であれば彼女自ら赴いて指揮をとることもあった。だが、やはり身体への負担はある。彼女自身が過去へ飛ぶ際は六振り全員を送り出すことができなかったり、霊力の不調をきたし彼女のみ先に帰還することのほうが多かった。
 もしも彼女が過去に生きていた人物であるならば、二十年もの間、現代へ留まれるはずがないのだ。
「……それに、なんで私……政府から消されないんだろう……」
 からり、と大きな音を立てて櫛が畳に転がる。手を滑らせてしまった鶯丸は、己に背を向けたまま俯く彼女をじっと見つめた。
「お嬢」
「だって、考えてもみてよ……彼らは私のお父さんを裁いたんでしょ……」
 人の命よりも規律や秩序を重んずる。そんな彼らが彼女の存在を知っていて野放しにするはずがない。
 そう言いたかったのであろう彼女は、唇を噛みしめる。
 鶯丸は櫛を拾い上げ、再びゆっくりと彼女の髪を梳かしはじめた。彼の主と同じ艶やかな黒髪がさらりと揺れるたび、その面影が脳裏を掠めてゆく。血の繋がりはないはずだが、彼女が男の実の娘のように思えた。鶯丸は己を落ち着かせるように深く、深く息を吐いた。
「現実を見ろ。実際お嬢は二十年もの間処罰の対象にならなかった。政府の連中はお嬢を生かしたんだ。案ずることはなにもない」
 鶯丸が半ば無理矢理に切り上げようとすると、彼女は口を尖らせた。
「……そうだけど」
「細かいことは気にするな。今日は疲れただろう。もう寝ろ」
「細かくない! うぐさんだって気になるでしょ、どうして私の面倒を見るように命じられたのがうぐさんだったのか……!」
 それまで静かに言葉を紡いでいた、彼女の声が大きく波打った。半身を捻るように振り向いた、内番ジャージにしがみつく瞳が哀願するように濡れている。
「俺は」
 そう言いかけて、鶯丸は言葉を切った。彼女が口にしたそれは、昼間に彼が震える彼女を抱きながら何度自問しても答えられなかった疑問。その答えを知りたくはないのかと尋ねられ、首を横に振れば嘘になる。
 ――しかし。
「……こうして成長したお嬢に会えて、主には感謝しているんだがな」
 鶯丸は彼女を背後から抱き竦め、後頭部に口付けた。
 甘い言葉は本音であり、カモフラージュだ。半ば強引にはぐらかし、彼女の意識を己へと向けさせる。
 これ以上彼女を苦しめたくはない。今日はもう、ただなにも考えずに休んでほしい。真実を語っておきながらなんと身勝手な、と、鶯丸は自嘲の笑みを漏らす。
 そんな彼の思惑に気づいていないのだろうか。謀にまんまと引っかかった彼女は、ますます俯いて身を縮めてしまった。さらりと流れる髪の毛から覗く耳朶は真っ赤に染まり、蚊の鳴くような声で首を横に振る。
「う、嘘ばっかり」
「俺がいつ嘘を?」
 悪戯に笑いながら首を傾げる。拗ねる彼女の頭を撫でる彼の手の平から、一房の髪の毛がはらりと垂れた。寝間着の浴衣を纏う白い肩とうなじが艶やかに彼を誘惑する。少女から大人の女性へと変わる色香を漂わせはじめた姿。石鹸の香りが彼の鼻腔をくすぐり、腰元がずくりと疼いた。
 やれやれ。人の身体とは厄介なものだ。
 水滴のついた櫛を手拭いで拭き取った鶯丸は、苦笑い気味にその髪に指先を絡めた。心は彼女の不安に寄り添っているはずなのに、身体は愛おしいと思う彼女へ正直に反応してしまう。
 色めきはじめた彼女に無理やり幼い面影を重ねようと、鶯丸は整えたばかりの彼女の頭をわしゃわしゃと撫でくり回した。
「や、やめてよ……」
 紅潮した頬は決して、彼女が風呂上がりだからというだけではない。眉をハの字に歪めて視線を逸らす彼女に、鶯丸の胸の奥で暖かくふわりとした想いが軽やかに弾む。
「蛸みたいだ」
「もうっ、子供扱いして!」
 喉の奥でくつくつと笑う鶯丸の胸を、振り返った彼女がぽかぽかと叩く。
 俺からすれば、主もお嬢も若造なんだがなぁ。
 そう言いながら細い手首を捕まえる。ちゅ、と音を立てて彼女の額に唇を落とし、鶯丸は声を潜めた。
「大人扱いされたいか」
「!? いっ、いい……っ」
 鶯丸に捕らえられた彼女が身体を強張らせ、よりいっそう顔を赤らめる。
 ああ、可愛らしい。ここで彼女を組み敷いたら、どんなに愛らしい鈴の音を鳴らすのだろうか。ぞわりと背筋を駆け上がる悪戯な欲を飲み込み、口端を吊り上げて大袈裟に肩を竦めた。
「それは惜しい」
「……ばか」
 恥ずかしい、と消え入りそうな声で呟き、彼女は彼の胸に顔を埋めた。
 己の手に抱かれる夢を見てくれたのであれば、それは重畳。悪い不安も予感も捨てて、今夜はそのまま俺のことだけ考えていてくれ。
 鶯丸は彼女の耳朶を食みながら、彼女を抱く腕に力を込めた。

その四

 明かりが消えた室内には規則的な呼吸だけが浮いている。白い月灯りが障子紙を突き抜け、組子の影を畳に落とす。
 鶯丸は掛け布団の上に座り片膝を立て、じっとそれを眺めていた。しかし、静かな寝息に交じり苦しそうに呻く声に、ゆっくりと視線を移した。
「……悪い夢でも見ているのか」
 布団を肩まで掛けて眉根を寄せる彼女の瞳はしっかりと閉じられている。その額に手の平をあてて、滲み出る汗を拭ってやった。
『皆には言わないでおこう』
 彼女にそう提案したのは鶯丸だった。
 謀るみたいで心が痛む。だが、歴史改変を阻止するために顕現された男士たちが主の正体を知りなにを思うのか。それを知るのは、少し怖い。彼女はそう怯えていた。
『真実を知られてしまったときは皆に何故黙っていたと怒られるかもしれないが、有事の際に処分を受けるのは俺とお嬢だけで十分だろう』
 彼のこの言葉に、彼女の中で決心が固まったようだった。政府機関から本丸に帰還後、スーツを脱ぎ捨ててパーカーに着替えるまでたっぷりと悩んでいたが、やがて小さく頷き、「私とうぐさんだけの秘密ね」と呟いたのだった。
「お嬢……」
 ぽつんと呟いた声が、静寂の中に溶けた。
 まるで朧月だ、と鶯丸は薄く笑った。漂う水分や塵に触れて不確かに霞み、柔らかくゆらりと揺れる。沈んでもなお力を残す日の光、そして気候に左右されながらようやく確立できる存在。されどそれは闇の中にある万物を淡く優しく照らし、心に留まり続ける。
 穏やかでもの悲しい春の夜。ぼんやりと落ちる煌めきに誘われ、月灯りを乞うように鳴く一羽の鶯。
「ん、う……あ……」
「どうした、苦しいか」
 彼女はどうやら夢と現の狭間にいるようだった。薄く開いた唇からうわごとのような寝言が漏れる。鶯丸がそっと額から手を外して白い頬へ添えると、苦悶の表情を浮かべていた彼女がもぞもぞと動いた。隣に寝ているはずの温かさがないことで覚醒したのかもしれない。なにやら布団の中を探ったのち、薄らと瞳を開けた。
「……お、はよう……?」
「いや、おやすみ」
 まだ夜半だ。そう言いつつ彼は眠気まなこを瞬かせる彼女の額にそっと唇を落とす。すると、苦しそうに顰めていた顔が、にへら、と緩んだ。そして鶯丸の手の平に頬をすり寄せたかと思うと、また規則正しい寝息が聞こえはじめる。
「なんだ、それは」
 吹き出してから、鶯丸は喉の奥でくつくつと笑った。少し乱れた布団を掛け直してやる。あどけない寝顔に自然と頬が綻び、なかなか元に戻らない。その柔らかそうな頬を指先でくすぐるたびに小さく声を漏らす彼女を、いつまでも見ていられるような気がした。
「……人の子みたいな欲が出たな」
 彼女が身じろいだ折に、はた、と気づき、彼女の唇をなぞっていた親指を離した。苦笑いを浮かべ、小さく溜息をつく。
 健やかに育つ彼女を見守ることは、彼の主にも他の刀たちにも叶わない夢だった。彼は今まさに成長する彼女の隣を歩んでいるのだから、彼女に言った「主には感謝している」という言葉は決して嘘にはならない。
 年月を経て、審神者としての経験を積んだ彼女。片腕ほどの大きさだった彼女はすくすくと育ち、花開くが如く明るく、真っ直ぐに強く伸びていった。その姿を間近で眺めていたことは、記憶を欠いていたと言えど、間違いなく鶯丸の喜びだった。
 だが、彼がそれ以上の想いを彼女に重ねはじめていたのもまた、事実だ。
 慈しむような愛情に、いつの間にか少しだけ欲が入り交じるようになっていた。触れると恥じらいながらも綻ぶ蒲公英かと思えば、不意に見せる艶やかな笑みは露に濡れる睡蓮のよう。彼を翻弄するような女の顔を見せはじめた彼女から、目が離せない。
 理由もなく口付けて、抱きしめたい。そしてできれば緩く甘やかしてやりたいと、気づけば強く願っている。
 そして、その想いは彼だけではない。
「うぐ……」
「ん」
「……うぐいす……」
 もにょもにょと呟く寝言に小さく返事をする。鶯丸の相槌が夢の中へ届いたのだろうか。彼の隣で安心しきりふにゃりと笑う彼女に、鶯丸は苦笑じみた笑みを漏らした。昼間の悲痛な面持ちが嘘のようだ。
 彼女が鶯丸に対して恋慕の情を抱いていることに、彼自身も気づいていた。なにかにつけて彼と行動を共にしていたし、肌に触れる彼を拒まなかった。照れ性が故に素直に頷けることは少なくとも、その手はしっかりと彼の裾を掴む。そんな彼女の本心は、誰の目から見ても明白だった。
 しかし、互いに改めて想いを伝えたことがあるかと問えば鶯丸も彼女も首を横に振る。ふざけて、好きだのなんだのと言って笑いあうことはある。しかしそれは決して恋人同士が睦みあうようなものではなく、一方通行のぶつかりあいであって、互いへの牽制でもあった。
 唇は重ねても、身体を愛撫することはない。添い寝はしても、同衾することはない。それは鶯丸にとって、あくまで刀と人の子としての一種のけじめであり、壁のように思えた。
 どれだけ人の子の真似事をしたところで本来交錯することのない想い。彼女は審神者としてこの本丸を守り使命を果たし、鶯丸は刀剣男士として彼女を見守り支える。それが在るべき姿だと、鶯丸はたびたび反芻する。少なからず、彼女もそれを感じているようだった。
 だからこそ簡単に「好きだ」と口走ることはできるが、真っ直ぐに心を明け渡し縛りあうことには躊躇する。言葉にするとどこに落ち着くのかわからない間柄をいつももてあまし、熱を帯びた視線を絡ませる。
 そして少しだけ息を弾ませながら、互いの唇を探すのだ。
「……主が見たらなんと言うかな」
 汗で張りついた前髪をそっと払ってやりながら、鶯丸は苦笑いを零した。
 彼にとっての安息のひととき。それは常に彼女と共にあり、傍にいる瞬間なのかもしれない。
 鶯丸は眠る彼女の唇に小さく口づけ、告げられるはずのない想いを乗せた。

鶯語り

「彼女は、君の愛情をたくさん受けて育っていたのだな」
 翁は深く皺が刻まれた口元を緩め、目を伏せた。
 話の途中、茶請けにと翁の刀である物吉貞宗が置いていった、梅を模した練り切り。赤く可愛らしいそれをひとくち食べた鶯丸は、そういえばお嬢も和菓子を好いていたな、と淡い笑みを浮かべた。
「なんともまあ、いじらしい女子だったなぁ」
 政府機関の建物で鶯丸と彼女に遭遇したときのことを思い出していたのだろう。狩衣を揺らしながら三日月が声を上げて笑うと、鶯丸は得意げに鼻を鳴らした。
「だろう」
「ふむ。是非俺もこの腕で愛でてみた……冗談だ」
 かと思いきや、三日月が冗談半分に揶揄した途端、部屋の空気がひやりと凍る。穏やかに過去を語る姿とはうって変わり、鋭い眼光を飛ばす鶯丸が「ほう」と口端を吊り上げる。
 翁が咳払いをして肘でつつくと、三日月は口を噤んだ。
「そうか。天下五剣の三日月宗近が俺の最後の獲物かと思ったのだが」
 残念だ、と茶を啜りながら挑発するように唇を歪めた鶯丸を見て、三日月は「なんとも好戦的な鶯よ」と笑った。
「……この二十年。あの審神者とお前、……彼女を思わない日は一日たりともなかった」
 鶯丸が顔を上げると、翁は唇を噛みしめていた。項垂れながらぽつりと呟くその姿に、僅か一年ほど前に対峙したときの威風はない。
 開け放たれた組子障子の間を縫い、そよ風が舞い込む。鶯丸は頬をくすぐるその感触を確かめるように目を瞑った。
 季節が移ろうごとに色を変える風の色は、十二ヶ月を経て巡り巡る。だが、人の子は歳を取るものだ。不変でも永遠でもないのだ、と改めて思い知らされる。
「今更なにを言ったところで、という話だが……」
「全くだ」
 鶯丸は小さく頷き、翁の後悔に同意した。
 やがてそよ風に乗り、淡い香を纏った白い梅の花びらが一枚、ひらりと舞い込んだ。すかさず手を伸ばして掴もうとしたひとひらは、彼の指先をするりと抜けて湯呑みの中にはらりと落ちる。
「叶うことなら、主と共に眠りにつきたかった、と思ったのは本当だ」
 渋い茶に浮かぶ丸いそれは、いつかの朧月。彼の湯呑みを替えようとする翁を制し、鶯丸は微笑んだ。
 そのまま茶を啜ると、花びらは逃げるように湯呑みの奥へと逃げ込む。苦笑いしながら指先で掬ったそれは、しっとりと濡れている。ぺろりと舐めると、彼の舌先に張りついた。
 こくり、と飲み干したのは彼女が愛でた春。隣から消えた陽光のような温もりごと己が食べてしまったのだと思えば、少しは気が紛れるような気がしていた。
 春光は穏やかに本丸に降り注ぎ、鳥の囀りは賑やかに彩りを添えている。それなのに心はざわめき、確かな寂しさが棲みついて離れない。
 早く、彼女の元へ逝かなくては――。
 鶯丸は、ちらりと視線を翁の背後の襖へ向けた。その向こうには、かつて彼女が近侍として迎えた薬研や、彼女を慕う加州、乱、燭台切らが眠っている。
「仲間が気になるか」
 鶯丸の様子を察し、三日月が首を傾げた。答える代わりに、鶯丸は視線を伏せて息を吐く。
 この昔話を彼らが聞いていたら、なんと思うだろうか。顕現を解かれ、本体に戻った彼らに口はない。鶯丸は己の輪郭をなぞるように手の甲を見ながら、小さく笑った。
「あの男の力も凄いものだ。二十年を経てなお、この本丸に留まり続けるとは」
「……違う。君も気づいているだろう。あの審神者の霊力はとっくに尽きている。君がまだ存在できているのは」
 不意に、悪戯な一筋の風が室内に吹き込んだ。翁の言葉を遮ったそれは鶯丸の前髪を優しく揺らした。
 ああ、君はそこ・・にいるのか。
 瞼の裏に今も焼きついているのは彼女の姿。花が咲いたかと思うほどの朗らかな笑顔。鳥の鳴き真似で起こす日々。穏やかな風のように彼を優しく包んでは、朧月の如く暗い未来をほんのりと照らすのだ。
 鶯丸は、次の言葉を紡ぐ切欠を探す翁を真っ直ぐに見つめた。
「そうだな。主ではなく彼女の最期の一振りになれることを、今は嬉しく思う」

その五

 翌日、彼女は熱を出した。
「お嬢。燭台切が昼飯を作ったんだが食欲はあるか」
「……いる……」
 合図もなしに障子戸を開ける鶯丸を怒る気力もないのだろう。彼女は布団に潜り込んだ身体をもぞもぞと起こし、気怠そうに返事をした。燻る湯気にひくひくと鼻を動かしては、とろんと潤んだ瞳で首を傾げ見つめてくる。まるで兎のようだ、と、鶯丸は小さく吹き出した。
「これ、なに……」
「鍋焼きうどんだそうだ」
 鍋蓋を開けると勢いよく立ち上る湯気。芳醇な出汁の香りがふわりと審神者部屋に広がった。油揚げ、ほうれん草、かまぼこ、長ねぎに、落とした卵。空きっ腹だったのだろうか。目を輝かせて鍋の中を見つめる彼女にくすりと笑い、鶯丸は小皿に具と麺を取り分けてやった。
「うまいか」
「うん……おいひい……」
 小皿を彼から受け取り、麺を頬張って満足そうに微笑む彼女に、文机に肩肘をついて眺めていた鶯丸の顔も綻ぶ。
 熱で動作が緩慢になっているのだろう。普段以上にもたもたとした動作で口元へ運ぶ彼女の口端からつつと、と出汁が垂れた。鶯丸がちょいちょいと自身の口元をつついて教えてやるものの、どうやら頭も回らないらしい。きょとんとして手を止める彼女は一向に気づかない。
 しかたないな。呆れたように笑った鶯丸は、そっと彼女の顔に手を伸ばした。その頬を支えながら舌先を伸ばし、垂れた出汁をぺろりと舐め取った。
「……!? な、なにして……!」
「うん。うまいな」
 反応が一拍遅れた彼女は、熱で火照った顔を更に赤く染めた。対して、鶯丸は可愛らしい抗議もどこ吹く風。今度はその唇をいただこうと、更に距離を縮めたときだった。
「お熱いところ、邪魔するぜ」
 小さな咳払いと共に、第三者の低い声が部屋に響いた。つられるように二人が顔を上げて中庭の方を見やると、開いたままになっていた障子戸に手を掛けて苦笑する、先日の検非違使戦で重傷を負った薬研藤四郎が白衣姿で立っていた。
「や、薬研!! ……あっ!? ま、待って……っ、これはっ」
 ぽかんと口を開けていた彼女が我に返り、慌てて鶯丸の胸板を押し返す。が、彼女の力ではびくともしない。鶯丸の腕に収まり赤い顔のままわたわたと慌てふためく彼女に、薬研はにやりと口端を吊り上げる。
「旦那、まだ明るいぜ。その辺で勘弁してやってくれ」
 ますます大将の熱が上がっちまう。
 くつくつと喉の奥を鳴らした薬研は水差しと薬を乗せた盆を文机に置き、腰を下ろしてどっかりと胡座をかいた。
「薬研、もういいの?」
「ああ、もう大丈夫だ」
 おろおろと眉をハの字にする彼女に、薬研は歯を見せて笑う。そのままぽん、と彼女の頭に手を乗せると、彼女から安堵の笑みが零れる。
 ――が。
「もしかして……」
 ある一点に目がいった彼女が眉根を寄せた。鶯丸がその先を辿ると、それは薬研の首元に巻かれたままの白い包帯。二人の視線に気づいた薬研は首を撫で、肩を竦めた。
「気を遣わせるだろうから傷を見せまいと思ってそのままにしてたんだが、逆効果だったか」
「傷……残ってる、の……?」
 彼女は不安そうに瞳を揺らした。薬研はそれに答えず目を細め、心配ない、と彼女の頭を撫でた。
 検非違使と対峙直後、薬研は半ば折れかけていたようなものだった。ましてや彼女は今、体調を崩している。薬研の反応もあり、残っているという傷のことを「霊力が足りず、細部まで手入れが行き届かなかっただけ」とさして気に留めなかった鶯丸は、ふと腕の中の異変に気づいた。
「……お嬢?」
 細い肩を小刻みに震わせる、彼女の頬から血の気が引いている。明らかにおかしい。そう感じた彼は、彼女の頬に触れながら呼びかけた。
「あ……な、なんでもない。待って……今、手入れ……」
「おっと」
 我に返った彼女は、立ち上がろうとしてよろめいた。
「今は無理すんな。資材も潤沢だし、本当になんともない。大将が元気になったら頼むさ」
 再び座り込んでしまった彼女を諭すように、薬研は首を横に振った。果たして、本当に問題なかったのか。それは傍目にはわからない。最後にひと撫で、と彼女の頭に手の平を重ねた薬研は目尻を下げ、立ち上がった。
「旦那、悪いな。すっかり近侍仕事を任せっきりにしちまった」
「細かいことは気にするな」
「しかし……俺はもうしばらく休ませてもらうぜ」
 大将も随分素直になったもんだな、と、廊下に出ようとした薬研が顎先に手を当てて振り返る。困惑する彼女の顔をまじまじと見つめると、にやりと冷やかしの笑みを浮かべて出て行ってしまった。
「……薬研、治ってなかった」
 再び二人きりとなった室内には、妙に不穏な空気だけが残り漂っていた。それを先に言葉に替えたのは、彼女だった。不安げに鶯丸を見上げる彼女を宥めようと、彼はそっとその髪を撫でた。
「だが、元気そうだった」
「そうじゃなくて……!」
 彼女は首を振り、鶯丸にしがみつく。荒い呼吸と、なにかに縋るような瞳。切羽詰まる表情に、えも言われぬ不安が鶯丸の脳裏を掠めた。
「……お嬢?」
「……なんでもない……少し、眠るね」
 彼女は顔を歪ませ、瞳を伏せた。明らかになにか言葉を飲み込んでいる。それに気づいていながら、鶯丸は追及を避けた。それよりも、まるで生気を失いはじめたような彼女の青白い顔色が気になってしかたなかった。
「ああ。……そうだ。明日は加州と乱が見繕っていた着物ができ上がると言っていた」
 回復した姿を見せなければ、彼らも心配するだろう、早く治せ。そう笑う鶯丸に、彼女は「そうだね」と口元を綻ばせ、ゆっくりと身体を預けた。
 そのまま抱きしめて閉じ込めてしまいたい衝動に駆られる。だが、今の彼女はどこか儚げで、ほんの少し力を込めただけで壊れてしまいそうなほど脆く見えた。抱擁の代わりに、鶯丸はそっと彼女を寝床へ横たわらせて布団をかけてやった。
 その日を境に、彼女は寝て過ごすことが多くなった。

その六

 それは彼女の誕生日を一時間後に控えた夜中のことだった。各男士たちへ与えられた六畳一間の個々の部屋。壁掛けの時計を眺めた鶯丸が就寝しようと燭台の灯りに手を差し伸べたそのとき、彼の耳に小さく、こつん、となにか叩くような音が聞こえてきた。
 それは彼の部屋の障子戸の外からだった。よくよく目を凝らすと、障子紙の向こう側の廊下に佇む影が薄らと見える。こんな夜中に誰だろうかと首を傾げた。
 そろりと竪桟に手をかけると、その隙間から見えたのは見慣れたパーカーの裾。思いがけない来客に目を見開いた鶯丸が勢いよく障子を開けると、逆に驚いたのは来訪者だ。目を瞬かせて彼を見上げ、息を飲む。シャツにパーカー、デニムジーンズのはつらつとした装いを久々に見た、と鶯丸は思った。
「お嬢」
「ごめんね。もう寝ようとしてた?」
 起きていていいのか。身体に障りないか。そう言葉を続けようとして、鶯丸は口を噤んだ。
 なにか、違和感がある。
 相変わらず彼女の顔色は悪い。体調を崩してからの審神者業はほぼ日課の業務と報告書をまとめることのみ。それ以外は審神者部屋でうとうとしているか、こうして鶯丸の部屋へやってきて彼と一緒にのんびりと過ごしているかだ。
 それでも、今晩の彼女は些か元気なようだった。それどころか、背筋を伸ばし真っ直ぐに鶯丸を見つめる双眸に、己に命ずるかつての主の面影を重ね見て、小さく首を横に振る。
 あるはずもない。彼女は彼女であって、主ではないのだ、と。
「うぐさん?」
「あ……? あ、ああ……冷えるだろう、ほら」
 入れ。怪訝そうに尋ねる彼女の声に我に返った鶯丸は、そう言いかけてようやく違和感の正体に気づいた。
「……お嬢、その格好はどうした」
 眉根を寄せる鶯丸に対して、彼女は動じることなく曖昧に微笑むだけ。
 時刻も時刻である。まして、最近の彼女はほぼ一日中萌葱色の寝間着に臙脂色の羽織を着ていたはずである。これから眠るだけの彼女が、何故そのような姿をしているのか。答えが既に目の前にあるようで、よりいっそう不安を煽る。
「……聞こうじゃないか」
 顎先で入るように促すと、彼女は素直にそろそろと部屋の中へ入った。布団の向かいに敷いた座布団に彼女を座らせると、自らは畳の上に胡座をかいた。
「うぐさんに、最初に言わなければと思って」
 改まった態度に、鶯丸の肩がぴくりと跳ねた。正座する彼女は、膝の上に置いた手をきゅっと握りしめたまま。やがて深く息を吐くと、彼女は顔を上げた。
「私、審神者やめる」
 その声に躊躇はなかった。凜とした声色はよく通り、鶯丸の心にぐさりと大きな杭を打つ。
 やはり――。
 なんとなく予想がついた展開であったとはいえ、いざ突きつけられると割りきれない黒い澱みが胸の内で蠢きはじめ、抑えることができない。
 真実を知ってしまったからか。やはり言わなければ良かった。この本丸はどうする。どうやって他の男士に説明する。この先どうやって生きてゆくのか。
 脈絡のない様々な戸惑いが犇めきあい、なにから口にすべきかわからずにいた。
「私の生い立ちを知ってショックだったけれど……それでも、お父さんからもらったこの命は、この時代で精一杯使いきろうと決めた。だから、私が歴史的にどうこうっていうのが、やめたいと思った理由ではないよ」
 言葉を失ってしまった鶯丸を見て、彼女はきっぱりと否定した。その瞳は迷わず真っ直ぐ彼を捉え、訴えかけている。
 固い意志を持つ目だ、と、鶯丸はどこか他人事のように思いながら彼女を見つめていた。胡座の上で握りしめた手の平はいつの間にか汗ばんでいて、指先が冷えている。
 口を噤んだままの鶯丸を見て、彼女は「あ」と小さく声を上げ、首を振った。
「ち、違うよ。みんなに隠してることが辛い……のは確かにそうだけれど、それも理由じゃないから」
 他の男士たちには真実を隠そう、と提案したのは鶯丸だ。彼が自責していると思ったのだろう。慌てて頭かぶりを振る彼女を見て、彼はようやく口を開いた。
「ならば、何故」
 喉がからからに乾いていた。絞り出した声は少し掠れ、唾を飲めば喉を焼くようにひりひりと滑りおちてゆく。
 少し、尖った言い方だった。思わず彼女の身体が強張るくらいに鶯丸の声は鋭く、拒絶の色を含んでいる。
 彼女は少し俯き、初めて彼から視線を逸らした。
「……今は言えない。でも、もう続けられないの」
「そうか」
「え……きゃっ!?」
 嫌にあっさりとした返事に思わず彼女が顔を上げた途端、彼は彼女の手首を掴み強く引いた。体勢が崩れ慌てるその顎を掴み、上を向かせ、鶯丸は彼女を睨みつけた。
「――なんて、納得すると思ったか」
 唇の触れてしまいそうな距離で、鶸萌葱の瞳をぎらりと光らせながら彼女を囲う。それは、かつて彼が戦場で見せた双眸と比べても遜色のない鋭さだった。
 彼女は唇を強く噛んだ。射殺されるような眼で見つめられ、反論の言葉が出てこない。
 それでも、鶯丸に伝えなくてはならない。そんな強い意志を宿した彼女が、対抗するように鶯丸を睨んだ。
「お……もってない……だから、だからね。うぐさんにお願いがあって」
 脈絡のない言葉に、ぴたり、と鶯丸の手が止まる。そもそも、欲しいものを言葉にできない彼女が、なにか明確に「してほしい」と頼むことはほぼないに等しい。
 沈黙を肯定の意と見なしたのだろう。噛みしめた唇を震わせ、彼女は短く息を吸った。
「どうか、今から私と一緒に過去へ行ってください」
 それは、彼が推し量れなかった彼女の決意。強く絡んだ二人の視線が、時を止める。
 長い、長い夜がはじまった。