第二幕 「命の欠片」
新涼の夕暮れだった。
残り僅かな夏を惜しむ蝉がその身を削って懸命に啼き、それに負けじと鈴虫が秋を呼ぶ。早咲きの金木犀の香りを乗せた風が、審神者部屋に吊り下げられた風鈴を軽やかに揺らしていた。
はじまりは、政府の遣いである一匹の管狐が、書簡を携えて本丸に尋ねてきたことだった。時の政府の印が刻まれた、その指令書。この本丸の主である男審神者は、書面へ目を滑らせた。
「夜戦なのに、太刀が二振りかい」
この本丸の初期刀、歌仙兼定。隠蔽能力に長けた堀川国広。機動が高い明石国行。そして、長く彼の近侍を務める鶯丸。計四振りが、審神者部屋に集められた。
「夕方の市街地戦になる可能性の方が高い」
男は顔色ひとつ変えずに、淡々と呟いた。
「なに言われても働きまへん。ま、ほどほどに……ふぁ」
「僕は雅が分かる者と組みたいけれどもね」
欠伸をする明石国行を睨み付けた歌仙が深く溜息をつく。そして本体を手に取り、怪訝そうに訊ねた。
「それより、まだ編成に空きがあるね。話を聞く限り、難易度はあまり高くない指令のようだけれど」
霊力の高いこの男が六振りを過去へ送り出すのは容易い。何故それをしないのか、と歌仙が首を傾げるのはもっともだった。
「【該当時代に赴く他の審神者と刀剣男士の援護。要、身辺調査】……。この【要、身辺調査】って、どういうことですか」
男が歌仙の問いに答えるよりも先に、指令を復唱していた堀川がきょとんとした声を上げた。一語で締め括られている割に、存在感のあるそれは酷く意識を引きつける。
歌仙の問いには答えず、男は長い睫毛を静かに揺らし、目を瞑った。
「……我々審神者の中に、時間遡行軍と結託し歴史改変を助長する者がいるのではないか、と政府が勘繰っている」
「は」
小馬鹿にするように鼻を鳴らしたのは、言わずもがな。歌仙にじろりと睨み付けられて肩を竦めた明石は「すいまっせん」ととぼけたふりをした。
「なるほど。……つまるところ今回の任務、表向きは味方の援護で、真の目的は疑わしき人の子の炙り出し、か」
なかなかにいけ好かないことをするものだ。そう独りごちた鶯丸が指令書から顔を上げた。
今回の指令は、謂わば時の政府への密告を義務付けるようなものである。「同胞を疑え」と言われていると言っても過言ではない。しかし立ち上がる男を窺ったところで、床の間に置かれた木刀に手を掛ける彼の表情は涼しげなものだった。動じる様子など微塵もなく、ただひたすら、己の任務のみを見つめている。
この男がなにを考えているかなど、測れるものか。
目を伏せて淡く微笑んだ鶯丸が己の本体に手をかけた。その様子に、気付いていたかどうか。男は抑揚のない声で、さらりと告げた。
「この目で真偽を見定めるため、私も出陣する必要がある。よって、連れて行くのは第一部隊のお前たち四振りとする」
その二
日は既に沈んでいた。彼らが飛んだ時代のその日は朔日。本来、静寂と共に暗闇が彼らを待ち受けているはずだった。
しかし、彼らがゲートをくぐり赴いたとき、夜空の端は明るい光に染まっていた。暮れなずむ、どころの話ではない。市街地は火の海と化し、飛び交う怒号に泣き叫ぶ子供。男士たちにぶつかりながらも逃げ惑う人の群れが、津波のように押し寄せてくる。そこかしこで上がる火の手は煌々と赤く燃え上がり、宵闇に追いやられまいと抵抗する陽の光のように見えた。
「主はんが夕方ゆうとりましたのはこのことやろか。夕焼けにも見えるけれども、趣味悪ー……」
「確かに、あまり品の良い例えとは言えないね」
明石が眉間に首を寄せる。うわあ、と首を横に振る彼に、本体を構えた歌仙が珍しく同意を見せた。
そのやりとりの背後で周囲を見渡していた鶯丸が、不意に振り返った。鶸萌葱の色を呈した瞳を鋭く光らせ、下ろしていた刀身を斬り上げる。それと同時に周囲に広がった、強い風圧と硬い金属音。彼の足下へ転がっていたのは、矢柄からぱきりと折れた二本の矢だった。
「お出ましだぞ」
峰で叩き落としたそれから視線を逸らし。路地の奥へと目を凝らす。逃げ惑う人々の中、人の子とは明らかに異なる形なりで突進してくる時間遡行軍の姿を捉え、三振りは身構えた。
「主と堀川はどこへ行った!」
「二人して、先におる審神者のとこへ行きよったはず……やっ」
先に衝突したのは明石だ。襲いかかる時間遡行軍の刃を刀身で受け止めたものの、力の強さに圧されてじりじりと後退せざるを得ない。明石は堪らず遡行軍の刀身を横に流すように弾き返して飛び下がり、遠い間合いを取り直した。
「おー、怖」
左手に刀を持ち替え、軽く痺れた右手をひらひらと振った。苦笑する口元と相反するように、彼の瞳は爛々と揺れている。
「明石、歌仙! 無理はするな! 援護対象が見つからない今、体力を無駄に消耗するんじゃない!」
「そうは言ってもね……っ」
打刀の遡行軍を薙ぎ払いながら二振りを気に掛ける鶯丸を余所に、歌仙までもがその目尻を吊り上げて戦闘に入り込んでいた。機敏に飛び跳ねる短刀の様子をじっくりと窺う澄んだ空色の眼が尖り、射殺さんとばかりに激しく動く。
「……っ」
首筋に小さな痛みを感じると同時に、鶯丸は真横へ飛んだ。先ほどは弾くことが出来た矢への反応が鈍っていることに気がつき、軽く舌打ちをする。薄暗くなりはじめている視界に、油断は命取りだ。すう、と息を吸うと、先に飛び掛かってきた脇差を薙ぎ払う。真っ二つに引き裂かれたそれに構う間もなく、襲いかかってきたもう一体の刃を受け止めた。
もはや、逃げ惑う人々の姿は疎まばらだった。崩れ落ちる家屋の音に、火事場に残る悲鳴も砂利を踏みしめる音も掻き消されてしまう。
これでは、聴覚すらも頼りにならない。鶯丸が眉根を寄せたときだった。対峙する一体の肩越しにはっきりとした黒い影がふたつ、前方の路地から弾かれるように飛び出した。
「ん? あれは……主!」
それは、路地を俊敏に後退しながら様子を探っていた男と、堀川の姿だった。
時間遡行軍の心の臓目掛けてずぶりと一突きした鶯丸が、素早くその刃を引く。大地へ倒れる図体からの返り血が彼の頬を濡らすのに構いもせず、彼は二人の元へと駆け寄った。
「無事か」
「ああ」
一拍遅れて駆けつけた歌仙と共に、彼らを抱き起こす。二人は軽い掠り傷を負っていたものの、怪我らしい怪我はない。鶯丸はそっと胸を撫で下ろした。
「ここにはもう遡行軍の気配はないね。……かと言って、他の男士たちもいる気がしない」
歌仙が、片膝をついたまま溜息をついた。彼の視線の先に、異形な者の姿はない。
鶯丸は立ち上がり、周囲を警戒した。幸か不幸か、戦闘時に視界が狭まったのは思いのほか鎮火が早かった所為だ。差し迫っていた火の手は弱まり、辺りは沈黙を取り戻しつつある。幾つかの残り火が点々と、路地の端や屋根瓦の上で焚火の如く揺らめいている。蜘蛛の子を散らすように逃げていた人の子の姿もない。そこにあるのは鼻を刺す焦げた臭いと、持ち主を失いひっそりとたたずむ暗い日本家屋の町並みだけだった。
「相手方の審神者の行方を追っていたんですが……奴らが邪魔で」
堀川が「見失った」と唇を噛みしめる。この任務の真の目的を果たせなかったことが悔しいのだろう。珍しく苦虫を噛み潰したような表情を見せる彼の頭に、顔に煤をつけた男はそっと手を置いた。
「いや、十分だ。この時代に起こった大火の被害規模も発生時間も史実通り。彼らは白だ」
「もう人影も見えへんし、みなさん逃げたんとちゃいますか」
四人の背後から、砂利を弾くような音がした。振り返った歌仙が、鶯丸同様に返り血をしとどに浴びた明石を見て、眉間に皺を寄せる。明石が左手で掴んだままの血を滴らせるそれは、遡行軍の首。彼自身、そのとき気付いたのであろう。「えろうすんませんなぁ」と笑いながら、明石はそれを道脇へ無造作に放り投げた。
「さて、結論が出たなら長居は無用。僕らも撤退しよう――」
けたけたと笑う明石に溜息をつき、歌仙が腰を上げた、まさにそのときだった。
「危ない!」
明石の表情が一変した。一行の一番後ろに立っていた彼だからこそ見えた、彼らの主の背後で踊る影。時間遡行軍脇差の輪郭がゆらりと揺れ、今にも男の首を獲らんとばかりに刃が光る。
目を見開き叫んだ明石の目の前から、一振りの姿が消えた。鴉のような黒い残像が視界に映り、息を飲む。燻り残る火の粉が舞う中、一閃を描いて光る刃。やや初動が遅れた歌仙と堀川、男が振り返ったときには既に、胴体から綺麗に裂かれた遡行軍の体が地べたに血溜まりを作っていた。
「主、怪我は」
迸る血飛沫を浴びながら、鶯丸が振り返る。普段は鉄仮面のような男も、不意打ちには流石に眉を顰めて小さく頷いた。
「大事無い」
「鶯丸さんっ、まだ上に!」
この中で一番夜目の利く、堀川の声が鋭く響いた。機敏に立ち上がった彼は近くの家屋の壁を蹴って屋根へ跳ね上がり、濃い闇に消える。
「おい、深追いはするな」
「ん、雨……?」
ぱらり、ぱらり。突然瞼の上に降った滴に、咄嗟に目を瞑った歌仙がごしごしと顔を擦る。既に火も殆どない。元より月明かりの無い夜空である。残された四人はただ、闇の中をじっと見つめた。
すると、一分と経たずにぼたぼたと大量の赤い滴が滴り落ちてきた。それが血であると認めるよりも先に、なにかがぼとりと落下する。視線を集めたそれは少し弾んで、歌仙の足下までころころと転がり込んだ。
「……明石、君……まだ隠し持っていたのか」
「堪忍したって。流石に、こんなんの収集癖はあれへん」
「堀川か?」
赤い鞠のようにぐちゃりと濡れた生首を真顔で見つめる歌仙と明石に、首を傾げる鶯丸。夜目の利かない彼らが頭上の暗闇に目を凝らすと、激しい刃音と共に黒い物体が凄まじい速さで落ちてきた。
「堀川!?」
「ぐ、ぅ……」
落ちたと言うより叩きつけられたと言って良いそれは、先ほど空へ駆け上がっていった堀川だった。慌てて近寄り抱き起こす歌仙の腕の中で、満身創痍の彼が唸る。落下の衝撃に加えて全身の裂傷、胸を深く抉るような刀傷に、彼らの表情が強張った。
「こ、これは一体……」
「しっ」
動揺する歌仙を諫めるように、男が自身の口元へ人差し指を当てた。ぱちぱちと小さく弾ける火の粉に、木材の崩れ落ちる重い音。どこか遠くで聞こえる悲痛な叫び声の他に、もうひとつ。金属がぶつかりあう、高い音が僅かに鼓膜を揺らす。
自分たち以外の何者かが、上空で戦っている。
それが刃音だと確信を得た頃には、それらは既に五人のすぐ傍まで迫っていた。
「あかん、検非違使や!」
眼鏡の奥で赤と緑を揺らし、暗闇を見つめていた明石が、柄を握りしめて鋭く叫んだ。
瞬間、強い殺気と共に青白い光に包まれた三つの巨体が地面を叩いた。その震動は即座に伝播し、焼け残る家屋にかろうじて形を残す柱までも倒してゆく。それは鶯丸たちの元へも届き、びりびりとした痺れが足先から全身へと駆け巡る。
「散れ!」
息を飲む男士たちにすかさず指示を出したのは、彼らの主だった。
「歌仙は私らが検非違使を引きつける間に堀川を連れてゲートへ走れ! 先に帰還して構わん!」
男が歌仙の前に立ち、自身が携えていた木刀を構えじりじりと後退する。緊迫した場面で発揮される彼の判断力は、男士たちにとってとても心強い。
「わかった! 堀川、捕まっていてくれ……!」
力強く頷き、気を失った堀川を背負って歌仙が走り出す。その動きが目に入ったのか、一体の検非違使が追撃しようと身体を反転させた。
「おっと。そっちは行ったらあきまへん」
間髪入れず、走り去る歌仙と検非違使の間に躍り出たのは細長い輪郭。ブーツの底で地面を蹴り上げて巻き起こした砂煙が、火の粉を含んだ小さな礫つぶてとなって周囲に弾け飛ぶ。
一瞬怯んだようにも見えた検非違使は、標的を明石へと変えて突進し始めた。その隙に体勢を整えた明石が槍を持った検非違使とぶつかり合う。だが、彼が機動に長けた太刀と言えども、相手は槍だ。僅差で遅れた彼の肩を槍の穂が切り裂く。鮮血が迸り、いつも余裕を含む瞳には苦悶の色が混じる。
「ぐっ……」
「明石!」
「余所見をするな、鶯丸」
明石に気を取られた鶯丸を、男が諫めるのはもっともだ。二対二ではあるが、男はほぼ直接の戦闘経験がない。ましてや、検非違使と生身の対峙など初めての人の子である。どちらが有利かは火を見るよりも明らかだ。
――しかし。
「ふっ」
男が飛ばす凍てつくような眼光に、二体の検非違使が動きを止めた。滞留する空気を強く震わせる彼の存在感に、鶯丸までもがぞわりと背筋を粟立たせる。
恐ろしい主を持ったものだ。
口端を吊り上げた彼は、いつの間にか滲み出ていた手汗で滑る柄を強く握り直した。
「すまない、主。凌いでくれ」
己と対峙する一体。瞬時に間合いを詰め振り下ろした刀身が、激しい刃音を立てて大太刀とぶつかり合う。歯を食いしばりながら、鶯丸は眉間に皺を寄せた。
機動は十分鶯丸が勝っていたが、衝力で比べると勝ち目は無い。だからこそ、確実に先手を打たなければならなかった。
だが、柄を握り直した僅かな時間で時機がずれてしまった。がちりと噛み合った衝撃を真面に食らった鶯丸は、その身体ごと後方へ弾き飛ばされた。
「鶯!」
「う、」
幸いなことに、彼が飛ばされた先にあったのは火の手が回らずに残る無人家屋の引戸。外れた戸板ごと家屋の壁に叩きつけられはしたものの、それが上手く緩衝材の役割を果たした。思いのほか身体の痺れはすぐに引き、くらくらする頭を二、三度横に振る。そこで両手が空いていることに気付き、慌てて本体を手探りで拾い上げた。
しかし、追撃がない。
「……しまった、主!」
鶯丸ははっとして立ち上がった。つまり検非違使は彼の姿を見失い、外にいたまま。彼の主もまた、然り。
『ひ、ひゃああ……!』
『危ないっ!』
甲高い女性の悲鳴と共に、切羽詰まるような男の声が響いた。鶯丸が慌てて家屋の外へ飛び出すと、先ほど相打ちとなった検非違使であろう、地面に伏して低く唸り立ち上がることのできない一体が転がっている。
鶯丸は安堵の息を漏らした。二対一という、頭を過ぎった最悪の構図は免れたらしい。
「どこだ……ん?」
薄暗い周囲を見渡した鶯丸がすぐ先の路地に見たのは、信じがたい光景だった。
人の子がいる。
身を強張らせて立ち竦むのは、女性と称すにはまだ少し幼い少女。その腕で火がついたように激しく泣き叫ぶ、赤子。そして、それを庇うように一体の検非違使と対峙して木刀を構える、己の主。
「主!!」
叫ぶや否や、鶯丸が地を蹴ろうとしたときだった。鶯丸の声に大きく肩を震わせた女の膝ががくりと揺れ、そのまま尻餅をついた。
「ああ!」
彼女の手から、赤子が滑り落ちた。焦ったように女が手を伸ばす。だが、腰が抜けてしまっているのか、泣き喚きながら地面を這う赤子を捕まえられずにその手が虚しく宙を掴む。
それに気を取られた鶯丸の視界の端で、気を失っていた検非違使がのそりと起き上がった。
主を助けなければ。そう判断した鶯丸の身体が動くよりも些か速かった。歴史介入を許さない検非違使は人の子をも殺す。この場にいる者全てを敵とみなし、屠るつもりなのだろう。目の前の母子を次の標的と定めた検非違使が地面を踏みしめ、一歩前に出た。
「だ、だめ……っ」
「くっ」
無意識だった。体勢を立て直し、あろうことか刀身を手放した鶯丸は、女に大太刀を振り下ろす検非違使目掛けて走った。女に刃が届くよりも、先。女の襟元と赤子の包みを素早く掴み、刃先を横っ飛びに跳ねて交わした。避けきれなかった切っ先が彼の頬を掠め、一筋の赤い線を描く。
「鶯……っ」
「主、分が悪い! 一体は俺が食い止める、もう一体から逃げながら後退してゲートをくぐれ!」
泣き止まない赤子を女に手渡した鶯丸は、路傍に転がる本体を素早く拾い上げて叫んだ。
鶯丸の様子を窺いながら大太刀を構える検非違使を睨みつけつつ、彼は小さく息を飲む――が、しかし。「頼んだ」と声を張って走り去る男の手が、女の手を掴んでいるのが視界に映った。
「な……!? 誰が連れて行けと……おっと」
ぎょっとしてその背中を二度見する鶯丸だが、それには構いもしない検非違使が大きな軌道を描き大太刀を振るう。だが、それに先んじて鶯丸は高く飛び跳ねた。そのまま夜空を舞うような、ひらりと軽やかな 翻筋斗もんどりをうつ。体勢を整えつつ降り立ったのは、未だ抜刀した姿勢を戻せない検非違使の背後。すかさず振り向き半身を捻らせる、鶯太刀の回転の一閃。
直後、その速さに縋れなかった大太刀の断末魔が不気味に響き渡った。
「今度は、滑らなかった」
ふう、と大きく息を吐き、刀身についた血を大きく払う。大きな図体が絶命したことを確認した鶯丸は抜き身を鞘に納め、踵を返し走り出した。
その三
火の手はほぼ無くなり、いよいよ闇は濃くなった。鶯丸が走りながら辺りを見渡すものの、鼠一匹さえ見えやしない。煤にまみれた、寂しくも不気味な長屋がどこまでも居並んでいる。
鶯丸は少し焦っていた。これ以上明かりが無くなってしまっては、逆に己の身に危険が及ぶ。主はゲートへたどり着いただろうか。歌仙と堀川、明石は無事か。強くなる焦燥に眉根を寄せる。
「あれは……」
やがて、路地の奥に浮かぶ青白い光が目についた。三軒ほど先に見えたそれは紛れもなく、先ほど自身たちを追い詰めていた検非違使の背中。そう認めた鶯丸は、力の限り地面を蹴った。
「主!」
柄に手を掛けようとした、そのときだった。
検非違使が大きく払った薙刀。辺りに降り注ぐ赤い雨。甲高い悲鳴。鼻につく錆の臭い。
ゆっくりと、流れるような一瞬が通り過ぎた。
「主!!!」
眼を見開いた鶯丸が大気を貫かんばかりに声を張り上げた。抉るような強い衝撃が彼の胸を貫く。が、それも束の間のこと。検非違使越しに血で汚れた狩衣が立ち尽くす姿に、「ああ、斬られたのは主ではない」と深く息を吐いた。
――では、誰だ。男の表情を見た鶯丸は、思わず唾を飲んだ。検非違使が現れたときですら顔色一つ変わらなかった男の双眸はめいっぱい見開かれ、驚愕の色に染まっていた。
そう。地面へ崩れ落ちたのは男ではなく、彼に手を引かれていた、粗末な麻の着物の女だった。
「っ、おい! しっかりしろ!!」
「くっ、お前の相手は俺だ!」
ようやく追いついた鶯丸が、青白く光る背中に向けて唸る。倒れた女を抱きかかえて取り乱す男を追撃しようとしていた検非違使が鶯丸に気付き、振り返りつつ大きく横一線に薙ぎ払った。寸でのところで交わして飛び下がった鶯丸が本体を構え直し、じりじりと間合いを図りはじめる。
「――お前が、最後だろうな」
呼吸を整える鶯丸が、息を深くゆっくりと吐き出しながら呟いた。身体の感覚を研ぎ澄ましたものの、強い気配を発しているのは目の前の一体のみ。おそらく、明石も対峙していた一体を仕留めたのだろう。
だが、どうにも胸騒ぎが止まない。不穏な翳りがざわざわと音を立てて広がってゆく。
「……」
「言葉の、通じる相手でもないか」
こめかみをたらりと伝ってゆく冷や汗。得体の知れない不安を振り払うように薄い笑いを浮かべつつ、鶯丸は右足を大きく踏み出した。
* * *
「大丈夫か」
鶯丸と検非違使が刃を交える背後で、男は女を道脇まで引きずると、長屋の壁に預けるように座らせた。
「う……」
内臓が大きく損傷したのであろう。女の紫色の唇からは、鮮血が止め処なく流れていた。
強く手を握りしめる男に、女は一筋の涙を零し淡く微笑んだ。そして、最後の力を振り絞るように震える手で腕の中の赤子を差し出した。
「わたしは、いいから……この、子……を、たすけて……」
「戯れ言を! お前は母親だろう、お前が死してこの子はどう育つというのだ!」
「かわいい、おんなのこ、です……どうか、どうか……」
受け取った男の腕の中で、赤子は激しく泣いていた。弾けんばかりに己の存在を主張する赤子は、必死に男の狩衣の袂に縋ろうとする。その片腕は、彼が少し捻れば骨が折れてしまいそうなほどに脆い。男がそっと指先を差し出すと、赤子の小さな小さな手の平は、彼の硬い指先をしっかりと掴んだ。
「温かい、な……」
「……いきて、いますから…」
それは、至極当たり前の回答だった。そうだというのに彼は言葉に詰まり、俯くよりほか無かった。彼が先ほどまで引いていた女の手の平は、とうに冷たかったのだ。
「主、まずい! 遡行軍だ!」
彼の背後で鶯丸の掠れた声が響く。もう、時間が無い。懸命に泣き叫ぶ命の灯火を腕の中に閉じ込め、男は奥歯を噛みしめた。
「……鶯、来い!! 強制転送する!!」
「無茶だ!」
立ち上がった男が片腕に赤子を抱き、もう片方の手で光を集めはじめる。駆け寄る鶯丸と共に、男は眩い光に包まれた。
必ず、この子は――。男がそう口にしたときには既に、赤子の母親は事切れていた。
とても、穏やかな笑みを浮かべて。
その四
「……君は、自分がなにをしているかわかっているのかい」
不気味に静まりかえる本丸の庭先に、歌仙の震える声が響いた。
男を囲むように顔を揃えたのは、無事先にゲートをくぐった歌仙と堀川。検非違使一体を退けて自身も中傷を負い、帰還を図った明石。ゲートにはたどり着けなかったが、強制転送により帰城した鶯丸。
そして――。
「ぎゃ、あ、ふぎゃあ……」
彼の腕の中でぐずぐずと顔に皺を寄せて泣き始める、赤子。
意識を取り戻した堀川が、歌仙に背負われたまま荒い呼吸混じりに呟いた。
「政府には、なんと報告を……」
その問いに答えられる者はいない。男が張った結界が解かれれば、他の刀剣男士たちが彼らの帰還に気付き出迎えに来るだろう。それまでの間になにかしら結論を出さなければと、その場にいる誰もがわかっていた。
「さっきの時代の数日後に戻してくるのはどうです?」
「だめだ」
首を傾げつつ提案する明石に、それまで黙っていた男がようやく口を開いた。
「この子をここへ連れてきた時点で過去は変わってしまった。お前の言うとおりにしたところで、二重に過去を変えるだけだ。……もう、あの時代にこの子の居場所はない」
「なら、どうしようもないじゃないか! 僕たちはそもそも歴史改変を」
「そんなことはわかっている!!」
咎めるような歌仙の言葉を撥ね除けるように、男の声が空気を震わせた。
ここまで激高した男を見るのは、誰しもが初めてだった。いつも飄々としている明石や鶯丸までもが目を丸くし、苦悶の表情を浮かべる男を凝視した。
不穏な雰囲気を感じ取ったのか、静かにぐずっていただけの赤子の顔がみるみるうちに歪んでゆく。その小さな身体のどこに秘めているのだろうか。そう思わずにはいられない、耳を塞ぐほどの大きな泣き声が結界の膜を揺らした。
「……わかっている」
それはまるで、男が自らに言い聞かせるための呪文だった。口にすることで自らを落ち着かせているようでいて、事実を現実に縛り付ける呪いの言霊。
彼の判断が、彼の未来を左右する。彼が取った行動は、彼に力を貸す刀剣男士たちを裏切るに等しい。天才でありつつ、人一倍積み重ねてきたものが多いからこそ、一刻前の己の行動に彼は強く唇を噛みしめた。
「……主。歴史改変を阻止する使命が課せられているのは主であって、俺たちではない」
そのとき、帰還してから初めて鶯丸が口を開いた。男が顔を上げると、四振りの視線は男に集まっていた。誰もが口を噤み、ただじっと最古参の言葉に耳を傾ける。
「どうあろうと俺たちの主は君だ。君の行動は否定しない」
不意に、赤子の泣き声が止んだ。男が視線を腕の中へ戻すと、きょろきょろと辺りを見渡す大きな丸い瞳と目が合った。
「だが、今回の出陣目的を思い出してくれ。君の行為は必ず、時の政府によって断罪されるだろう。場合によっては、その赤子も」
鶯丸の穏やかな声音が心地よかったのだろうか。内容は、まるで厳しい現実を語っているのだが。
目をふにゃりと細め、声を上げて笑いはじめる赤子を見て、男は肩を震わせた。
「――覚悟は、できているのか」
再び、長い沈黙が訪れた。誰もが口を閉ざす空間の中で、花が咲いたような場違いな明るい笑い声がいつまでも、いつまでも結界内に響いていた。
新涼の夕暮れだった。
残り僅かな夏を惜しむ蝉がその身を削って懸命に啼き、それに負けじと鈴虫が秋を呼ぶ。早咲きの金木犀の香りを乗せた風が、審神者部屋に吊り下げられた風鈴を軽やかに揺らしていた。
はじまりは、政府の遣いである一匹の管狐が、書簡を携えて本丸に尋ねてきたことだった。時の政府の印が刻まれた、その指令書。この本丸の主である男審神者は、書面へ目を滑らせた。
「夜戦なのに、太刀が二振りかい」
この本丸の初期刀、歌仙兼定。隠蔽能力に長けた堀川国広。機動が高い明石国行。そして、長く彼の近侍を務める鶯丸。計四振りが、審神者部屋に集められた。
「夕方の市街地戦になる可能性の方が高い」
男は顔色ひとつ変えずに、淡々と呟いた。
「なに言われても働きまへん。ま、ほどほどに……ふぁ」
「僕は雅が分かる者と組みたいけれどもね」
欠伸をする明石国行を睨み付けた歌仙が深く溜息をつく。そして本体を手に取り、怪訝そうに訊ねた。
「それより、まだ編成に空きがあるね。話を聞く限り、難易度はあまり高くない指令のようだけれど」
霊力の高いこの男が六振りを過去へ送り出すのは容易い。何故それをしないのか、と歌仙が首を傾げるのはもっともだった。
「【該当時代に赴く他の審神者と刀剣男士の援護。要、身辺調査】……。この【要、身辺調査】って、どういうことですか」
男が歌仙の問いに答えるよりも先に、指令を復唱していた堀川がきょとんとした声を上げた。一語で締め括られている割に、存在感のあるそれは酷く意識を引きつける。
歌仙の問いには答えず、男は長い睫毛を静かに揺らし、目を瞑った。
「……我々審神者の中に、時間遡行軍と結託し歴史改変を助長する者がいるのではないか、と政府が勘繰っている」
「は」
小馬鹿にするように鼻を鳴らしたのは、言わずもがな。歌仙にじろりと睨み付けられて肩を竦めた明石は「すいまっせん」ととぼけたふりをした。
「なるほど。……つまるところ今回の任務、表向きは味方の援護で、真の目的は疑わしき人の子の炙り出し、か」
なかなかにいけ好かないことをするものだ。そう独りごちた鶯丸が指令書から顔を上げた。
今回の指令は、謂わば時の政府への密告を義務付けるようなものである。「同胞を疑え」と言われていると言っても過言ではない。しかし立ち上がる男を窺ったところで、床の間に置かれた木刀に手を掛ける彼の表情は涼しげなものだった。動じる様子など微塵もなく、ただひたすら、己の任務のみを見つめている。
この男がなにを考えているかなど、測れるものか。
目を伏せて淡く微笑んだ鶯丸が己の本体に手をかけた。その様子に、気付いていたかどうか。男は抑揚のない声で、さらりと告げた。
「この目で真偽を見定めるため、私も出陣する必要がある。よって、連れて行くのは第一部隊のお前たち四振りとする」
その二
日は既に沈んでいた。彼らが飛んだ時代のその日は朔日。本来、静寂と共に暗闇が彼らを待ち受けているはずだった。
しかし、彼らがゲートをくぐり赴いたとき、夜空の端は明るい光に染まっていた。暮れなずむ、どころの話ではない。市街地は火の海と化し、飛び交う怒号に泣き叫ぶ子供。男士たちにぶつかりながらも逃げ惑う人の群れが、津波のように押し寄せてくる。そこかしこで上がる火の手は煌々と赤く燃え上がり、宵闇に追いやられまいと抵抗する陽の光のように見えた。
「主はんが夕方ゆうとりましたのはこのことやろか。夕焼けにも見えるけれども、趣味悪ー……」
「確かに、あまり品の良い例えとは言えないね」
明石が眉間に首を寄せる。うわあ、と首を横に振る彼に、本体を構えた歌仙が珍しく同意を見せた。
そのやりとりの背後で周囲を見渡していた鶯丸が、不意に振り返った。鶸萌葱の色を呈した瞳を鋭く光らせ、下ろしていた刀身を斬り上げる。それと同時に周囲に広がった、強い風圧と硬い金属音。彼の足下へ転がっていたのは、矢柄からぱきりと折れた二本の矢だった。
「お出ましだぞ」
峰で叩き落としたそれから視線を逸らし。路地の奥へと目を凝らす。逃げ惑う人々の中、人の子とは明らかに異なる形なりで突進してくる時間遡行軍の姿を捉え、三振りは身構えた。
「主と堀川はどこへ行った!」
「二人して、先におる審神者のとこへ行きよったはず……やっ」
先に衝突したのは明石だ。襲いかかる時間遡行軍の刃を刀身で受け止めたものの、力の強さに圧されてじりじりと後退せざるを得ない。明石は堪らず遡行軍の刀身を横に流すように弾き返して飛び下がり、遠い間合いを取り直した。
「おー、怖」
左手に刀を持ち替え、軽く痺れた右手をひらひらと振った。苦笑する口元と相反するように、彼の瞳は爛々と揺れている。
「明石、歌仙! 無理はするな! 援護対象が見つからない今、体力を無駄に消耗するんじゃない!」
「そうは言ってもね……っ」
打刀の遡行軍を薙ぎ払いながら二振りを気に掛ける鶯丸を余所に、歌仙までもがその目尻を吊り上げて戦闘に入り込んでいた。機敏に飛び跳ねる短刀の様子をじっくりと窺う澄んだ空色の眼が尖り、射殺さんとばかりに激しく動く。
「……っ」
首筋に小さな痛みを感じると同時に、鶯丸は真横へ飛んだ。先ほどは弾くことが出来た矢への反応が鈍っていることに気がつき、軽く舌打ちをする。薄暗くなりはじめている視界に、油断は命取りだ。すう、と息を吸うと、先に飛び掛かってきた脇差を薙ぎ払う。真っ二つに引き裂かれたそれに構う間もなく、襲いかかってきたもう一体の刃を受け止めた。
もはや、逃げ惑う人々の姿は疎まばらだった。崩れ落ちる家屋の音に、火事場に残る悲鳴も砂利を踏みしめる音も掻き消されてしまう。
これでは、聴覚すらも頼りにならない。鶯丸が眉根を寄せたときだった。対峙する一体の肩越しにはっきりとした黒い影がふたつ、前方の路地から弾かれるように飛び出した。
「ん? あれは……主!」
それは、路地を俊敏に後退しながら様子を探っていた男と、堀川の姿だった。
時間遡行軍の心の臓目掛けてずぶりと一突きした鶯丸が、素早くその刃を引く。大地へ倒れる図体からの返り血が彼の頬を濡らすのに構いもせず、彼は二人の元へと駆け寄った。
「無事か」
「ああ」
一拍遅れて駆けつけた歌仙と共に、彼らを抱き起こす。二人は軽い掠り傷を負っていたものの、怪我らしい怪我はない。鶯丸はそっと胸を撫で下ろした。
「ここにはもう遡行軍の気配はないね。……かと言って、他の男士たちもいる気がしない」
歌仙が、片膝をついたまま溜息をついた。彼の視線の先に、異形な者の姿はない。
鶯丸は立ち上がり、周囲を警戒した。幸か不幸か、戦闘時に視界が狭まったのは思いのほか鎮火が早かった所為だ。差し迫っていた火の手は弱まり、辺りは沈黙を取り戻しつつある。幾つかの残り火が点々と、路地の端や屋根瓦の上で焚火の如く揺らめいている。蜘蛛の子を散らすように逃げていた人の子の姿もない。そこにあるのは鼻を刺す焦げた臭いと、持ち主を失いひっそりとたたずむ暗い日本家屋の町並みだけだった。
「相手方の審神者の行方を追っていたんですが……奴らが邪魔で」
堀川が「見失った」と唇を噛みしめる。この任務の真の目的を果たせなかったことが悔しいのだろう。珍しく苦虫を噛み潰したような表情を見せる彼の頭に、顔に煤をつけた男はそっと手を置いた。
「いや、十分だ。この時代に起こった大火の被害規模も発生時間も史実通り。彼らは白だ」
「もう人影も見えへんし、みなさん逃げたんとちゃいますか」
四人の背後から、砂利を弾くような音がした。振り返った歌仙が、鶯丸同様に返り血をしとどに浴びた明石を見て、眉間に皺を寄せる。明石が左手で掴んだままの血を滴らせるそれは、遡行軍の首。彼自身、そのとき気付いたのであろう。「えろうすんませんなぁ」と笑いながら、明石はそれを道脇へ無造作に放り投げた。
「さて、結論が出たなら長居は無用。僕らも撤退しよう――」
けたけたと笑う明石に溜息をつき、歌仙が腰を上げた、まさにそのときだった。
「危ない!」
明石の表情が一変した。一行の一番後ろに立っていた彼だからこそ見えた、彼らの主の背後で踊る影。時間遡行軍脇差の輪郭がゆらりと揺れ、今にも男の首を獲らんとばかりに刃が光る。
目を見開き叫んだ明石の目の前から、一振りの姿が消えた。鴉のような黒い残像が視界に映り、息を飲む。燻り残る火の粉が舞う中、一閃を描いて光る刃。やや初動が遅れた歌仙と堀川、男が振り返ったときには既に、胴体から綺麗に裂かれた遡行軍の体が地べたに血溜まりを作っていた。
「主、怪我は」
迸る血飛沫を浴びながら、鶯丸が振り返る。普段は鉄仮面のような男も、不意打ちには流石に眉を顰めて小さく頷いた。
「大事無い」
「鶯丸さんっ、まだ上に!」
この中で一番夜目の利く、堀川の声が鋭く響いた。機敏に立ち上がった彼は近くの家屋の壁を蹴って屋根へ跳ね上がり、濃い闇に消える。
「おい、深追いはするな」
「ん、雨……?」
ぱらり、ぱらり。突然瞼の上に降った滴に、咄嗟に目を瞑った歌仙がごしごしと顔を擦る。既に火も殆どない。元より月明かりの無い夜空である。残された四人はただ、闇の中をじっと見つめた。
すると、一分と経たずにぼたぼたと大量の赤い滴が滴り落ちてきた。それが血であると認めるよりも先に、なにかがぼとりと落下する。視線を集めたそれは少し弾んで、歌仙の足下までころころと転がり込んだ。
「……明石、君……まだ隠し持っていたのか」
「堪忍したって。流石に、こんなんの収集癖はあれへん」
「堀川か?」
赤い鞠のようにぐちゃりと濡れた生首を真顔で見つめる歌仙と明石に、首を傾げる鶯丸。夜目の利かない彼らが頭上の暗闇に目を凝らすと、激しい刃音と共に黒い物体が凄まじい速さで落ちてきた。
「堀川!?」
「ぐ、ぅ……」
落ちたと言うより叩きつけられたと言って良いそれは、先ほど空へ駆け上がっていった堀川だった。慌てて近寄り抱き起こす歌仙の腕の中で、満身創痍の彼が唸る。落下の衝撃に加えて全身の裂傷、胸を深く抉るような刀傷に、彼らの表情が強張った。
「こ、これは一体……」
「しっ」
動揺する歌仙を諫めるように、男が自身の口元へ人差し指を当てた。ぱちぱちと小さく弾ける火の粉に、木材の崩れ落ちる重い音。どこか遠くで聞こえる悲痛な叫び声の他に、もうひとつ。金属がぶつかりあう、高い音が僅かに鼓膜を揺らす。
自分たち以外の何者かが、上空で戦っている。
それが刃音だと確信を得た頃には、それらは既に五人のすぐ傍まで迫っていた。
「あかん、検非違使や!」
眼鏡の奥で赤と緑を揺らし、暗闇を見つめていた明石が、柄を握りしめて鋭く叫んだ。
瞬間、強い殺気と共に青白い光に包まれた三つの巨体が地面を叩いた。その震動は即座に伝播し、焼け残る家屋にかろうじて形を残す柱までも倒してゆく。それは鶯丸たちの元へも届き、びりびりとした痺れが足先から全身へと駆け巡る。
「散れ!」
息を飲む男士たちにすかさず指示を出したのは、彼らの主だった。
「歌仙は私らが検非違使を引きつける間に堀川を連れてゲートへ走れ! 先に帰還して構わん!」
男が歌仙の前に立ち、自身が携えていた木刀を構えじりじりと後退する。緊迫した場面で発揮される彼の判断力は、男士たちにとってとても心強い。
「わかった! 堀川、捕まっていてくれ……!」
力強く頷き、気を失った堀川を背負って歌仙が走り出す。その動きが目に入ったのか、一体の検非違使が追撃しようと身体を反転させた。
「おっと。そっちは行ったらあきまへん」
間髪入れず、走り去る歌仙と検非違使の間に躍り出たのは細長い輪郭。ブーツの底で地面を蹴り上げて巻き起こした砂煙が、火の粉を含んだ小さな礫つぶてとなって周囲に弾け飛ぶ。
一瞬怯んだようにも見えた検非違使は、標的を明石へと変えて突進し始めた。その隙に体勢を整えた明石が槍を持った検非違使とぶつかり合う。だが、彼が機動に長けた太刀と言えども、相手は槍だ。僅差で遅れた彼の肩を槍の穂が切り裂く。鮮血が迸り、いつも余裕を含む瞳には苦悶の色が混じる。
「ぐっ……」
「明石!」
「余所見をするな、鶯丸」
明石に気を取られた鶯丸を、男が諫めるのはもっともだ。二対二ではあるが、男はほぼ直接の戦闘経験がない。ましてや、検非違使と生身の対峙など初めての人の子である。どちらが有利かは火を見るよりも明らかだ。
――しかし。
「ふっ」
男が飛ばす凍てつくような眼光に、二体の検非違使が動きを止めた。滞留する空気を強く震わせる彼の存在感に、鶯丸までもがぞわりと背筋を粟立たせる。
恐ろしい主を持ったものだ。
口端を吊り上げた彼は、いつの間にか滲み出ていた手汗で滑る柄を強く握り直した。
「すまない、主。凌いでくれ」
己と対峙する一体。瞬時に間合いを詰め振り下ろした刀身が、激しい刃音を立てて大太刀とぶつかり合う。歯を食いしばりながら、鶯丸は眉間に皺を寄せた。
機動は十分鶯丸が勝っていたが、衝力で比べると勝ち目は無い。だからこそ、確実に先手を打たなければならなかった。
だが、柄を握り直した僅かな時間で時機がずれてしまった。がちりと噛み合った衝撃を真面に食らった鶯丸は、その身体ごと後方へ弾き飛ばされた。
「鶯!」
「う、」
幸いなことに、彼が飛ばされた先にあったのは火の手が回らずに残る無人家屋の引戸。外れた戸板ごと家屋の壁に叩きつけられはしたものの、それが上手く緩衝材の役割を果たした。思いのほか身体の痺れはすぐに引き、くらくらする頭を二、三度横に振る。そこで両手が空いていることに気付き、慌てて本体を手探りで拾い上げた。
しかし、追撃がない。
「……しまった、主!」
鶯丸ははっとして立ち上がった。つまり検非違使は彼の姿を見失い、外にいたまま。彼の主もまた、然り。
『ひ、ひゃああ……!』
『危ないっ!』
甲高い女性の悲鳴と共に、切羽詰まるような男の声が響いた。鶯丸が慌てて家屋の外へ飛び出すと、先ほど相打ちとなった検非違使であろう、地面に伏して低く唸り立ち上がることのできない一体が転がっている。
鶯丸は安堵の息を漏らした。二対一という、頭を過ぎった最悪の構図は免れたらしい。
「どこだ……ん?」
薄暗い周囲を見渡した鶯丸がすぐ先の路地に見たのは、信じがたい光景だった。
人の子がいる。
身を強張らせて立ち竦むのは、女性と称すにはまだ少し幼い少女。その腕で火がついたように激しく泣き叫ぶ、赤子。そして、それを庇うように一体の検非違使と対峙して木刀を構える、己の主。
「主!!」
叫ぶや否や、鶯丸が地を蹴ろうとしたときだった。鶯丸の声に大きく肩を震わせた女の膝ががくりと揺れ、そのまま尻餅をついた。
「ああ!」
彼女の手から、赤子が滑り落ちた。焦ったように女が手を伸ばす。だが、腰が抜けてしまっているのか、泣き喚きながら地面を這う赤子を捕まえられずにその手が虚しく宙を掴む。
それに気を取られた鶯丸の視界の端で、気を失っていた検非違使がのそりと起き上がった。
主を助けなければ。そう判断した鶯丸の身体が動くよりも些か速かった。歴史介入を許さない検非違使は人の子をも殺す。この場にいる者全てを敵とみなし、屠るつもりなのだろう。目の前の母子を次の標的と定めた検非違使が地面を踏みしめ、一歩前に出た。
「だ、だめ……っ」
「くっ」
無意識だった。体勢を立て直し、あろうことか刀身を手放した鶯丸は、女に大太刀を振り下ろす検非違使目掛けて走った。女に刃が届くよりも、先。女の襟元と赤子の包みを素早く掴み、刃先を横っ飛びに跳ねて交わした。避けきれなかった切っ先が彼の頬を掠め、一筋の赤い線を描く。
「鶯……っ」
「主、分が悪い! 一体は俺が食い止める、もう一体から逃げながら後退してゲートをくぐれ!」
泣き止まない赤子を女に手渡した鶯丸は、路傍に転がる本体を素早く拾い上げて叫んだ。
鶯丸の様子を窺いながら大太刀を構える検非違使を睨みつけつつ、彼は小さく息を飲む――が、しかし。「頼んだ」と声を張って走り去る男の手が、女の手を掴んでいるのが視界に映った。
「な……!? 誰が連れて行けと……おっと」
ぎょっとしてその背中を二度見する鶯丸だが、それには構いもしない検非違使が大きな軌道を描き大太刀を振るう。だが、それに先んじて鶯丸は高く飛び跳ねた。そのまま夜空を舞うような、ひらりと軽やかな 翻筋斗もんどりをうつ。体勢を整えつつ降り立ったのは、未だ抜刀した姿勢を戻せない検非違使の背後。すかさず振り向き半身を捻らせる、鶯太刀の回転の一閃。
直後、その速さに縋れなかった大太刀の断末魔が不気味に響き渡った。
「今度は、滑らなかった」
ふう、と大きく息を吐き、刀身についた血を大きく払う。大きな図体が絶命したことを確認した鶯丸は抜き身を鞘に納め、踵を返し走り出した。
その三
火の手はほぼ無くなり、いよいよ闇は濃くなった。鶯丸が走りながら辺りを見渡すものの、鼠一匹さえ見えやしない。煤にまみれた、寂しくも不気味な長屋がどこまでも居並んでいる。
鶯丸は少し焦っていた。これ以上明かりが無くなってしまっては、逆に己の身に危険が及ぶ。主はゲートへたどり着いただろうか。歌仙と堀川、明石は無事か。強くなる焦燥に眉根を寄せる。
「あれは……」
やがて、路地の奥に浮かぶ青白い光が目についた。三軒ほど先に見えたそれは紛れもなく、先ほど自身たちを追い詰めていた検非違使の背中。そう認めた鶯丸は、力の限り地面を蹴った。
「主!」
柄に手を掛けようとした、そのときだった。
検非違使が大きく払った薙刀。辺りに降り注ぐ赤い雨。甲高い悲鳴。鼻につく錆の臭い。
ゆっくりと、流れるような一瞬が通り過ぎた。
「主!!!」
眼を見開いた鶯丸が大気を貫かんばかりに声を張り上げた。抉るような強い衝撃が彼の胸を貫く。が、それも束の間のこと。検非違使越しに血で汚れた狩衣が立ち尽くす姿に、「ああ、斬られたのは主ではない」と深く息を吐いた。
――では、誰だ。男の表情を見た鶯丸は、思わず唾を飲んだ。検非違使が現れたときですら顔色一つ変わらなかった男の双眸はめいっぱい見開かれ、驚愕の色に染まっていた。
そう。地面へ崩れ落ちたのは男ではなく、彼に手を引かれていた、粗末な麻の着物の女だった。
「っ、おい! しっかりしろ!!」
「くっ、お前の相手は俺だ!」
ようやく追いついた鶯丸が、青白く光る背中に向けて唸る。倒れた女を抱きかかえて取り乱す男を追撃しようとしていた検非違使が鶯丸に気付き、振り返りつつ大きく横一線に薙ぎ払った。寸でのところで交わして飛び下がった鶯丸が本体を構え直し、じりじりと間合いを図りはじめる。
「――お前が、最後だろうな」
呼吸を整える鶯丸が、息を深くゆっくりと吐き出しながら呟いた。身体の感覚を研ぎ澄ましたものの、強い気配を発しているのは目の前の一体のみ。おそらく、明石も対峙していた一体を仕留めたのだろう。
だが、どうにも胸騒ぎが止まない。不穏な翳りがざわざわと音を立てて広がってゆく。
「……」
「言葉の、通じる相手でもないか」
こめかみをたらりと伝ってゆく冷や汗。得体の知れない不安を振り払うように薄い笑いを浮かべつつ、鶯丸は右足を大きく踏み出した。
* * *
「大丈夫か」
鶯丸と検非違使が刃を交える背後で、男は女を道脇まで引きずると、長屋の壁に預けるように座らせた。
「う……」
内臓が大きく損傷したのであろう。女の紫色の唇からは、鮮血が止め処なく流れていた。
強く手を握りしめる男に、女は一筋の涙を零し淡く微笑んだ。そして、最後の力を振り絞るように震える手で腕の中の赤子を差し出した。
「わたしは、いいから……この、子……を、たすけて……」
「戯れ言を! お前は母親だろう、お前が死してこの子はどう育つというのだ!」
「かわいい、おんなのこ、です……どうか、どうか……」
受け取った男の腕の中で、赤子は激しく泣いていた。弾けんばかりに己の存在を主張する赤子は、必死に男の狩衣の袂に縋ろうとする。その片腕は、彼が少し捻れば骨が折れてしまいそうなほどに脆い。男がそっと指先を差し出すと、赤子の小さな小さな手の平は、彼の硬い指先をしっかりと掴んだ。
「温かい、な……」
「……いきて、いますから…」
それは、至極当たり前の回答だった。そうだというのに彼は言葉に詰まり、俯くよりほか無かった。彼が先ほどまで引いていた女の手の平は、とうに冷たかったのだ。
「主、まずい! 遡行軍だ!」
彼の背後で鶯丸の掠れた声が響く。もう、時間が無い。懸命に泣き叫ぶ命の灯火を腕の中に閉じ込め、男は奥歯を噛みしめた。
「……鶯、来い!! 強制転送する!!」
「無茶だ!」
立ち上がった男が片腕に赤子を抱き、もう片方の手で光を集めはじめる。駆け寄る鶯丸と共に、男は眩い光に包まれた。
必ず、この子は――。男がそう口にしたときには既に、赤子の母親は事切れていた。
とても、穏やかな笑みを浮かべて。
その四
「……君は、自分がなにをしているかわかっているのかい」
不気味に静まりかえる本丸の庭先に、歌仙の震える声が響いた。
男を囲むように顔を揃えたのは、無事先にゲートをくぐった歌仙と堀川。検非違使一体を退けて自身も中傷を負い、帰還を図った明石。ゲートにはたどり着けなかったが、強制転送により帰城した鶯丸。
そして――。
「ぎゃ、あ、ふぎゃあ……」
彼の腕の中でぐずぐずと顔に皺を寄せて泣き始める、赤子。
意識を取り戻した堀川が、歌仙に背負われたまま荒い呼吸混じりに呟いた。
「政府には、なんと報告を……」
その問いに答えられる者はいない。男が張った結界が解かれれば、他の刀剣男士たちが彼らの帰還に気付き出迎えに来るだろう。それまでの間になにかしら結論を出さなければと、その場にいる誰もがわかっていた。
「さっきの時代の数日後に戻してくるのはどうです?」
「だめだ」
首を傾げつつ提案する明石に、それまで黙っていた男がようやく口を開いた。
「この子をここへ連れてきた時点で過去は変わってしまった。お前の言うとおりにしたところで、二重に過去を変えるだけだ。……もう、あの時代にこの子の居場所はない」
「なら、どうしようもないじゃないか! 僕たちはそもそも歴史改変を」
「そんなことはわかっている!!」
咎めるような歌仙の言葉を撥ね除けるように、男の声が空気を震わせた。
ここまで激高した男を見るのは、誰しもが初めてだった。いつも飄々としている明石や鶯丸までもが目を丸くし、苦悶の表情を浮かべる男を凝視した。
不穏な雰囲気を感じ取ったのか、静かにぐずっていただけの赤子の顔がみるみるうちに歪んでゆく。その小さな身体のどこに秘めているのだろうか。そう思わずにはいられない、耳を塞ぐほどの大きな泣き声が結界の膜を揺らした。
「……わかっている」
それはまるで、男が自らに言い聞かせるための呪文だった。口にすることで自らを落ち着かせているようでいて、事実を現実に縛り付ける呪いの言霊。
彼の判断が、彼の未来を左右する。彼が取った行動は、彼に力を貸す刀剣男士たちを裏切るに等しい。天才でありつつ、人一倍積み重ねてきたものが多いからこそ、一刻前の己の行動に彼は強く唇を噛みしめた。
「……主。歴史改変を阻止する使命が課せられているのは主であって、俺たちではない」
そのとき、帰還してから初めて鶯丸が口を開いた。男が顔を上げると、四振りの視線は男に集まっていた。誰もが口を噤み、ただじっと最古参の言葉に耳を傾ける。
「どうあろうと俺たちの主は君だ。君の行動は否定しない」
不意に、赤子の泣き声が止んだ。男が視線を腕の中へ戻すと、きょろきょろと辺りを見渡す大きな丸い瞳と目が合った。
「だが、今回の出陣目的を思い出してくれ。君の行為は必ず、時の政府によって断罪されるだろう。場合によっては、その赤子も」
鶯丸の穏やかな声音が心地よかったのだろうか。内容は、まるで厳しい現実を語っているのだが。
目をふにゃりと細め、声を上げて笑いはじめる赤子を見て、男は肩を震わせた。
「――覚悟は、できているのか」
再び、長い沈黙が訪れた。誰もが口を閉ざす空間の中で、花が咲いたような場違いな明るい笑い声がいつまでも、いつまでも結界内に響いていた。