第一幕 「宿命の春」

その一

 春の息吹が野山を駆け巡る、穏やかに晴れた日のことだった。厨から漂う朝餉の香りを吸い込みつつ、鶯丸は本丸の廊下をのんびりと歩いていた。建具を開け放したくれ縁の古い板を軋ませて、本丸の最奥へと向かう。
 目的の部屋の組子障子の戸に手をかけたとき、軒先から差し込む朝日の眩しさに、思わず立ち止まり手を翳す。
 鶯丸は、緩やかな陽の光が射し込むこの部屋が大好きだった。白い日差しに慣れない目を細めて中庭を見渡す。そこには確かに春の遣いが訪れており、冬の気配が残る世界に重ねて、新しい土の匂いが僅かに漂っていた。池の側に植えられた梅の木の花は、晴天を背景に懸命に咲き誇り、新しい季節を歌っている。
 今日は暖かくなりそうだ、と、彼は淡く微笑んだ。
「お嬢。朝だぞ」
 そう。彼がここへ来たのは、季節の趣を享受するためではない。ちゃんとした目的があるのだ。
 中庭に面した一室、審神者部屋。その組子障子の引き戸を軽く叩いた。が、しばらく待っても、室内からはなんら応答がない。
「……またか」
 やれやれ、と呆れたように笑う鶯丸は、勢いよくその障子を開けた。目に飛び込んできたのは、案の定――。
「……ううん……うぐいす……もう、たべられない……」
 室内の隅に幅を取る敷布団の上。就寝前にきっちり肩まで掛けたはずの毛布は、大きく捲られている。萌葱色の浴衣寝間着の裾から覗く、すらりとした御御足。乱れた胸元。そして、あどけなさが浮かび、幸せそうに緩む寝顔。
「俺は焼き鳥か……」
 うへへ、と笑う口端から流れる涎に、鶯丸は軽い頭痛を覚えた。
 毎朝、この本丸の主である女審神者を起こすのが鶯丸の役目だ。しかし彼は未だ、自身よりも先に目覚めた彼女を見たことがない。特段、早起きしているわけではないのだが。
 室内に入り彼女へ近寄ろうとして、鶯丸はなにかを蹴ったことに気がついた。足を止めて拾い上げたそれは、彼女の筆。ふと視線を文机に遣ると、積まれた処理済みの書類に、書きかけのそれ。書庫から引っ張り出してきたと思われる、古い資料の帳面の束。出しっ放しの算盤。
 道理で、毛布が剥がれているわけだ。
 頭を掻きながら、鶯丸は苦笑いを浮かべた。座業は嫌いだ、と文句を垂れながらも、なんだかんだ生真面目な彼女のことだ。中身の少し残る湯吞みを見る限り、夜中に起きてひとり黙々と業務をしていたに違いない。
「ほら、お嬢。朝だぞ」
 とは言え、それとこれとは話が別だ。彼女を起こさないことには、この本丸の一日は始まらないのだ。
 致し方ない、と未だ眠り続ける華奢な身体を小さく揺する。すると、ようやくその瞼がぴくりと動いた。
「……うう……うぐ……」
 目を擦る彼女に返事をする代わりに、鶯丸は小さく口笛を吹く。
 ほう、ほけきょ。
 確かにそう聞こえた彼の口笛が風に乗り、審神者部屋に春を告げる。開け放したままの組子障子からは、中庭から運ばれた柔らかな東風が訪れ、鶯丸と彼女の髪を弄んでゆく。
 やがて、彼女はぼんやりと焦点の定まらない瞳のまま天井を見つめ、ゆっくりと身体を起こした。
「……うぐいすが啼いてる……」
「俺だ」
「わっ!?」
 何度も目を瞬かせる彼女は、そのとき初めて鶯丸の存在に気がついたのだろう。布団の脇に跪いて笑う鶯色の瞳と視線が絡んだ途端、彼女は大きく目を見開いて飛び下がるように後退りした。
「びっ……びっくりした……おはよう……今日もかっこいいね……?」
 起き抜けの情報量の多さに混乱しているのか。頭上に疑問符を浮かべる彼女を見ながら微笑み、その頭を撫でてやる。わしゃわしゃと髪の毛を乱すと、彼女は心地よさそうに目を細めた。
「おはよう。かっこいいか」
「うん……好き……」
 まだ覚醒しきっていないのであろう。目をごしごしと擦りながら眠気まなこと懸命に闘う彼女の半開きの唇からは、本音がだだ漏れだ。
「そうか。俺もお嬢が好きだぞ。……だからこそ、朝からその格好は些か刺激が強い」
 とんとん、と鶯丸が指先で自身の鎖骨の辺りを叩いてやる。すると、少しずつ覚醒しはじめたのか、彼女は鶯丸の仕草と彼女自身の胸元で視線を往復させた。今にも再び閉じられそうだった瞳がみるみるうちに見開かれ、くりくりとした瞳が大きく揺れる。
「……? ……!! す……っ、スケべ!!」
「それは否定しないが、まずはその涎まみれの顔を洗ってこい」
「へ」
 大きく開けた寝間着に気づき慌てて袂を押さえたものの、流石に自身の顔まではわかるはずもない。指摘されて頬を赤く染めつつ、ごしごしとまるで猫のように顔を強く擦る姿に、鶯丸は喉の奥でくつくつと笑った。
「と、年頃の女性の部屋に無断で入るな!!」
「うるさいな、耳が痛くて仕方ない。それに、お嬢は俺に起こされなきゃ起きないだろう」
 ぎゃいぎゃいと騒ぐ彼女の頭をもうひと撫でした鶯丸は、穏やかに微笑んだ。
 二人が繰り広げる痴話喧嘩に、「なんだなんだ」と他の刀たちも集まり出す。こうして、この本丸の一日は幕を開けるのだ。

その二

「毎日感謝してる、してるけどさぁ……だからって、返事もしてないのに部屋に入ってくる!?」
「起きないお嬢が悪い」
 日が高く昇るころ。朝餉とその片付けを済ませると、彼女の部屋には様々な男士が集まってくる。幸い、この本丸の初鍛刀兼近侍であり彼女の座業を監視する、薬研藤四郎の姿はない。審神者部屋に普段から居着く鶯丸と彼女を慕う刀たちが、文机に向かい筆を持つ彼女の傍らでのんびりと寛いでいた。
 未だ根に持っているらしく、数時間前のできごとに延々と口を尖らせる審神者を尻目に、加州清光は爪紅を塗りながら溜息をついた。
「いいなー。俺も毎朝主のこと起こしに行きたいのに」
「やめておけ。噛みつかれるぞ」
「わっ、噛みつくって……あるじさん、過激~!」
「ちょ、ちょっと乱ちゃん違うから! うぐさんも、変なこと言わないで!」
 傍で茶を啜っていた鶯丸が首を横に振る。書類を書き連ねる手を止めて顔を赤らめながら反論する彼女を尻目に、乱は大袈裟に茶化した。
「俺は珍獣のようだと言ったつもりなんだがなぁ」
「主。歌仙くんが呼んでるよ」
 にやりと笑った鶯丸が湯吞みを座卓の上に置いたときだった。開け放たれたままの組子障子の端をこんこんと叩き、燭台切光忠がひょっこりと顔を覗かせた。
「えっ。なに、私なにかやらかした?」
「うーん、どうかな……。彼、別に怒ってるわけじゃなさそうだったけどね」
 首を傾げる燭台切に眉を顰めた彼女が、溜息をついて立ち上がる。タイトなデニムにTシャツ。ベージュのカジュアルなパーカー。後頭部の高い位置で一本に纏められた黒髪が、さらりと揺れる。
「……主。正装したら、とは言わないけれど、その……華やかな服装には興味がないのかい?」
 苦笑気味に燭台切が首を傾げた。本丸一の伊達男が言わんとしていることはわからないでもない。年頃の女性にしては、なんとも色気のない格好である。煮え切らないその発言に思わず吹き出した鶯丸を見て頬を小さく膨らませた彼女は、かりかりと鼻の頭を掻いた。
「動きやすいからこれでいいの」
 じゃあ、行ってくるね。手を振った彼女が部屋から去ったのち、鶯丸を除く三振りの口元からは盛大な溜息が零れた。
「うーん、あれじゃあ聞き出せないな……」
「そうだよぉ……ボクたちが選んじゃってもいいけれど、やっぱりあるじさんの好みの色がいいよね」
 肩を竦めた燭台切が、出て行ってしまった彼女と入れ替わりに部屋に入り、座卓に腰を下ろす。加州、乱、燭台切、そして鶯丸。近侍以外で、よく彼女の世話を焼くのがこの面子だ。
 持ち主の居なくなった部屋で、彼らは声も潜めずにやいやいと話し合いをはじめた。艶やかな深紅に塗り終えた指先を折り曲げて見つめる加州が、眉間に皺を寄せる。
「そうだよ。せーっかく主の成人の儀なんだから。可愛い振り袖でデコってあげたいじゃん」
「成人、か」
 鶯丸は、中庭の梅の木に止まる雀を見ながら小さく呟いた。刀の感覚で、二十年など――。
「……ん」
 ふと、微かに頭が痛むことに気がついた。二、三度頭を横に振ってみると、なんともない。
 はて、今のはなんだったか。首を傾げながら再び梅の木に目を向ける。もう、そこに雀はいなかった。
「ねえ、聞いてる? 鶯丸さん」
「ん? ああ、そうだな」
 もう、と頬を膨らませる乱に、鶯丸は曖昧な返事をした。
 現代では齢二十を越えたら成人として扱われる。そんな情報を仕入れた彼らが張り切って準備をはじめたのは、半年も前だ。彼女が「ほら」と現代の雑誌の特集ページを開いたとき、刀剣男士たちが目を輝かせたのは言うまでもない。色鮮やかな振り袖に、華やかに飾り立てられた髪型。普段こざっぱりとした彼女も、こういう格好をするのだろうか。そう思った彼らが尋ねれば、彼女は今年その節目を迎えるとのこと。現代の成人の儀には出席できないとしても、せめて彼女の誕生日には――。
 しかし。
『振り袖? いやいや、無い袖は振れないよ』
 そう冗談交じりに笑い飛ばされてしまっては、彼らとて付喪神と言えど男が廃る。へし切長谷部や博多藤四郎が予算を切り詰め、男士全員で節約し、彼女には内密のまま、ようやく万屋で仕立てられるだけの金額を貯めあげたのだ。
 だが、当の本人には興味がないときた。これには誰もが頭を抱えた。先ほどのように、それとなく探りを入れるもののことごとく失敗。あまりしつこく尋ねると気づかれてしまう。先ほどの燭台切も、踏み込んだもののあと一歩……というところでかわされた。
 打てる手が尽きてしまったのであろう、加州が降参とばかりに手を上げた。
「鶯丸は主の好みそうな柄、知ってるんじゃないの?」
「お嬢は昔から、花より団子だ」
 湯飲みに沈む茶葉をぼんやりと見つめている鶯丸が呟いた、何気ない一言が引き金だった。
「……あのさ」
 突き刺さる視線の束に気づき、鶯丸は中庭に向けていた意識を室内へ戻した。どうした、とは聞くまでもない。異なる色を呈した五つの瞳が、「ずっと訊きたいことがあったのだ」と雄弁に語り掛けている。
 誰とも知れず、ごくり、と唾を飲む音がした。そこにあるのは、彼女の好みが知りたいという純粋な疑問だけに留まらない。
「もしかして……折れちゃったんじゃないかなって思って、主さんには訊けなくて」
 意を決して口を開いた彼女の初拾得刀、乱が顕現した頃の彼女は、まだ年端もいかぬ幼子だった。その傍には既に薬研と、そして鶯丸がいた。だが、打刀を探してもどこにもいない。不思議に思って薬研に尋ねたところで「俺もいないとしか聞いていないんだ」と眉を顰められてしまっては、それ以上誰に聞く術もない。
「そもそも、おかしいと思ってたんだよね。ボクが鶯丸さんと会ったときにはもう、鶯丸さん、最高練度だった。出陣姿も見たことがないよ。……ねえ、鶯丸さんがあるじさんの初期刀なんでしょ?」
「それは、」
 差し迫る雰囲気を察した鶯丸は、口を開いた。
 が、その先を紡ぐ言葉が出てこない。俺は今なにを語ろうとしていたのか、と眉を顰める。乾いた唇が語るのを拒否するが如く、勝手に閉じてしまう。それだけではない。もやもやと胸の内を渦巻く、得も言われぬ不快感。再びずきずきと痛みはじめる、こめかみ。
「鶯丸は隠す必要がないじゃん。教えてよ」
「……いや、そういうつもりでは」
「じゃあいいじゃん。少なくとも、ここにいる俺らはずっと気になってた」
 二の句が継げない鶯丸に痺れを切らしたのは、加州だった。万が一本当に初期刀が折れてしまっていたのだとしたらと思うと、彼女に聞くのは気が引ける。加州の主張はもっともだ。
 口を尖らせる第二部隊隊長に、鶯丸は痛み続けるこめかみを押さえて小さく笑った。
「俺は、気づいたらこの本丸にいたから知らないな」
「えっなにそれ、誤魔化さないでよー!」
「さて。仮に俺が初期刀だとしたら、お嬢が審神者に就任したときには打刀が在庫切れでもしていたんじゃないか?」
「そんな万屋の品揃えみたいに……」
 それまで黙って話を聞いていた燭台切ですら呆れざるを得ない、飄々とした返答。「また話をはぐらかして」と眉根を寄せる三振りに曖昧に微笑んだ鶯丸は、残り僅かな茶の湯吞みを片手に審神者部屋を後にした。
「……誤魔化しているわけではないんだがな」
 彼が歩けば、きぃきぃとまるで鳥が啼くような廊下。足を止めた鶯丸は、虚空を見つめて乱の言葉を反芻する。
 嘘をついてはいない。俺が言ったことはそのまま真実だ。
 鶯丸はそっと目を瞑った。
 気がついたときには、まだ話す言葉も覚束ない彼女とともにこの本丸にいた。こんのすけもいなければ、ほかの刀剣男士もいない。
 確かに、他の本丸からすれば異様な形態である。それについては疑問に思わないと言えば嘘になる。だが、彼女が審神者として本格的に活動をはじめてから次第に増える刀剣たちに、そういう感覚もすっかり忘れてしまっていた。
 そして、もうひとつ。ほかに覚えていることと言えば、時折様子を見に訪れる初老の政府機関の役人がいた、ということくらいだろうか。 「――そういえば、最近奴らは姿を見せないな」
 鶯丸がぼんやりと、考えを巡らせたときだった。
『彼女に善悪の分別がつくようになったら、本格的に審神者としての修行をさせてくれ』
「っ、」
 途端に激しさを増した頭痛によろめき、廊下の壁に手をついた。落としそうになる湯吞みをすんでのところで掴みなおす。
 呼吸が激しく乱れていた。鶯丸は無理矢理深く息を吐き、湯吞みに残った茶を飲み干した。口内に残る渋みが、いつもよりとても苦い。思い出そうとすればするほどに、酷くなる痛み。
 二十年。その年月が、なぜだか心に引っかかる。なにか。なにかとても大切なことを忘れているような――。
 そのときだった。
「誰か! 主を……っ、報告を!」
 突如、山姥切国広の鋭い怒声が午前の穏やかな本丸を劈いた。鶯丸がふと顔を上げると、廊下の先の部屋から数振りの男士たちがつられて顔を覗かせている。
「うわ、派手にやられたなー」
 怪我が日常茶飯事になっているが故、出迎える男士たちも特に慌てることはない。たとえそれが全員中傷で帰還したとしても、だ。
 いち早く彼らを出迎えたのは、たまたま内番の畑仕事へ向かおうとしていた獅子王だった。苦笑いしながら小走りに駆け寄る表情が、玄関先で倒れ込む第一部隊の姿を捉え、みるみるうちに凍り付いてゆく。
 獅子王に続いて駆けつけた鶯丸が見たその光景は、惨憺たる有様だった。
 極二振り。最高練度二振り。練度上げの最中の蛍丸と御手杵が含まれた部隊ではあるが、彼らも決してほかの四振りに引けを取るような実力ではない。だが、玄関にいるのは夥おびただしい量の血を流し深手を負った五振り。そして、泥と血に塗れた山姥切の布に包まれ、血の気を失いぐったりとした薬研藤四郎の姿だった。
「どうした。薬研が一番酷いな」
「検非違使にやられた。薬研が集中的に長柄槍の攻撃を食らったんだ……主はどこだ!」
「い、今呼んでくる!」
 我に返った獅子王が、慌てて踵を返し走り出す。検非違使の単語と緊迫した空気を受け、集まってきたほかの男士たちの間にもただごとではない、と動揺が走る。
 薬研を受け取った鶯丸が尋ねると、体力の限界だったのか、山姥切は崩れ落ちた。膝をつき、肩で大きく息をする。その腕を肩に回して立ち上がった和泉守兼定が、声を張り上げた。
「手を貸せ! 手入れ部屋へ運ぶぞ!」
「俺等は、あとでいい……っ、はやく、早く皆……」
 普段は冷静な鶯丸も、流石に顔色を曇らせた。彼が手に抱えているのはこの本丸の初鍛刀。一等最初に極修行に出た、彼女の近侍だ。体格によらず肝が据わり、冷静沈着に指示を出す刀が何故、ここまで。
 彼が薬研の白い頬についた血を掌で拭うと、青く変色しはじめた唇が微かに呻き声を上げた。
「落ち着け!」
 鶴の一声だった。騒然とするその場に流されない鶯丸の声が、低く鋭く唸りを上げる。水を打ったように静まりかえる辺りに、薬研の浅い呼吸が大きく浮かんでは消えてゆく。
「薬研、話せるか。なにがあった」
「旦那……ゆ、だんしたぜ……みんな、大将を守って、くれ……」
「ど……どうし、みんな……薬研っ!?」
 廊下の奥から、ぱたぱたと飛んでくる足音が聞こえた。それが近づき大きくなった途端、なにかが割れる音が大きく響き渡った。散らばる陶器の破片と、跳ねる水飛沫。持っていた花瓶が粉々になったことには構いもせず、彼女は血相を変えて鶯丸と薬研の傍へ駆け寄った。
「奴らが出たのは出陣先じゃないんだ。ゲートをくぐってからだよ!」
 見る限り中傷以上の痛手を受けた御手杵を担ぐ蛍丸。その言葉に、その場にいた誰もが目を見開いた。
「な、合戦場じゃねーのかよ!」
「悠長にしてる場合じゃねぇ! この敷地内に検非違使がいるってこった!」
「庭先にいた岩融と今剣が残りの二体相手に加勢してくれて……いてて」
 いつも飄々としている蛍丸と御手杵ですら、獅子王と和泉守の悲鳴じみた驚嘆に眉を顰めて頷いた。その様子に誰もが目を見張る。
 明らかな、非常事態だった。
「……結界、本丸に霊力で結界を張る! 第二部隊準備して!! 第三部隊は遠征してる第四部隊を呼び戻してから、手入れの手伝い……っ、急いで!!」
 騒然とする場に高らかに響き渡る、迷いのない声。彼らの瞳から、動揺の色が消えてゆく。彼女の指示を皮切りに、男士たちは自身の役目を果たすために一斉に走り出した。
 取り残された、パーカー姿の華奢な背中。指示を出したばかりの身体が震えている。カタカタと歯を鳴らし、食いしばる、強ばった表情。
 薬研を獅子王に渡し手入れ部屋へ向かわせた鶯丸は、そっと彼女の細い肩を抱いた。
「う、ぐさん……っ」
 鶯丸を見上げる、彼女の瞳。その色が、不安と恐怖で怯えている。折れるか否かの瀬戸際を彷徨う近侍を目の当たりにし、内心取り乱していたに違いない。
 それでもなお、凜とした真っ直ぐな双眸で声を張り上げ、男士たちを鼓舞する姿。
 それは、まるで――。
「……っ」
 再び、強い頭痛が鶯丸を襲った。それは先ほどの比ではない。頭を撃ち抜かれるような、なにか、破片が突き刺さるような痛み。
「うぐ、さん……?」
 不安を募らせた声色に、鶯丸は我に返った。
 弱々しく彼の腕を引く、彼女の小さな手。この人の子は、たとえ自身が折れても護らなければ。じわじわと広がりはじめる焦燥に、胸の奥が大きく波打ってゆく。
 このような胸騒ぎを覚えたのは、初めてだ。
 鶯丸は小さく息を吐き、瞑っていた目をそっと開いた。
「なんでもない。まずは今剣たちに加勢するぞ」
「うん……っ」
 鶯丸の言葉に頷いた彼女は、その小さな両手で自身の頬を叩く。その様子に少しだけ安堵した彼は、拭いきれない不安を胸の奥へと仕舞いこんだ。
 暖かな日差しは少しずつ翳り、春の嵐が訪れようとしていた。

その三

 結局その日はそれ以降、本丸に検非違使が現れることはなかった。
 手入れ部屋には傷の深い刀から順に運びこまれ、布団はすぐに埋まってしまった。彼女はつきっきりで、傷ついた男士たちの手当を行っていた。
「……ふう」
 既に日はとっぷりと暮れていた。暖かな日差しが降り注ぐ昼間とは違い、肌寒い夜風が身体を刺すように縁側を流れていく。
「これで、だいぶ……」
 額の汗を拭った彼女は、小さく溜息をついた。まだ鳴狐と蛍丸が残っているが、彼らは軽傷。手入れは大方行き届いたと思って良いだろう。
 安堵の表情を浮かべる彼女とは対照的に、鶯丸はどこか腑に落ちない事実に悶々としていた。本体を抱えながら壁に背を預けて座り、眠りにつく四振りをぼんやりと眺める。
 一番の手負いが極の薬研。次は山姥切と、極の小夜左文字。そして、御手杵。練度上げの最中である御手杵はともかくとして、前者は彼女が比較的初期に顕現した三振りだ。時折隊を入れ替えるとしても、ほぼ第一部隊から動かないのがこの面子である。
 今までにも何度か、検非違使と対峙したことはある。しかし、油断していたとはいえ、安定した強さを見せる彼らの傷が酷いことに鶯丸はどうしても納得がいかないでいた。
「おう。ご苦労だったな、主。燭台切が時の政府に連絡を入れた。案ずることはない」
「なにもできませんが、ぼくたちがかわりますよ!」
 滾々こんこんと沸き上がる疑問に眉を顰めていると、手入れ部屋の障子がすとんと開いた。
 ちゃんとみていますから、あるじさまはおやすみくださいね。そう言いながら手入れ部屋に入ってきたのは、最後の検非違使を仕留めた岩融と今剣だった。
「いまつるちゃん、岩融も。大丈夫だよ、寧ろ二人のほうが疲れたでしょう?」
 あなたたちこそ休んでよ、と微笑む彼女の目尻が赤く腫れている。誰も触れこそしないが、手入れ中もずっと襲い受ける不安と闘っていた証だ。
 まだ少女のあどけなさが残る彼女が、目の前で苦痛に耐えている。なんとも言えない遣る瀬なさに胸が痛み、鶯丸は彼女から視線を逸らして立ち上がった。
「悪いな、二振りとも」
「構わんさ。俺らは無傷だからな」
「ちょ、ちょっと! うぐさん、私まだ大丈夫だってば!」
 鶯丸は彼女の腕を強引に掴み、引き上げるように立たせた。嫌だ、まだここに居たい。そう口を尖らせて首を横に振る彼女に、耳を貸すつもりは毛頭ない。鶯丸が渋る彼女を引きずるように、部屋を出ようとしたときだった。
「ああ、そうだった。少し気になることがあってな」
 すれ違いざまにふと、岩融が顎に手を当てて首を傾げた。
「なんだ」
「最後の一体の検非違使なんだが――」
 鶯丸と彼女が足を止めると、岩融は「それが、」と珍しく言い淀み、奇妙なことを口走った。

* * *

『我らには襲いかかろうとしなかったのだ』
 審神者部屋に戻った鶯丸は、岩融の言葉を脳内で反芻した。どういうことだ、と突き詰めて考えようとしても、手懸かりすらない。
 室内にはいつの間にか朝の面子が顔を揃えており、話を聞いていた乱が不安そうに首を傾げた。
「襲う刀を選んでる、っていうこと?」
「いや。そういうわけでもないらしい。……ただ、気になるのは」
 そう言いかけ、鶯丸は口を噤んだ。
『あれはまるで、なにかをさがしているようでした』
 今剣の怪訝そうな表情が彼の脳裏を掠める。
 捜しもの。なにを。明確な目的があってこの本丸に現れたのは確かである。だた、何故――。
 鶯丸の疑問を言葉にしたのは、皆にお茶を煎れる燭台切だった。
「そもそも、検非違使が出現したのが合戦場じゃなかったのが気になるね……。どうして本丸内に出たんだろう。第一部隊を追ってきたとか?」
「……わからない。時の政府は、『検非違使が本丸を襲撃するような事件は他の本丸では起こっていない』って……」
 彼女は燭台切から湯吞みを受け取って、首を横に振った。
 検非違使。時間遡行群ではない、第三の勢力。歴史改変を目論む歴史修正主義者とは違い、彼らは過去への過度な干渉、遡及自体を許さない。同じ時代へ出陣を繰り返せば、刀剣男士や審神者でさえ、彼らの攻撃対象になりかねない。
 言い換えれば、歴史への深い介入さえしなければ、彼らは刀剣男士や審神者の元へは現れないはずなのだ。
「……なあ、乱。岩融や今剣は、この本丸に顕現してどのくらい経った」
「うーん……結構前だけど、順番的には中ほどじゃないかなぁ」
 急に話を振られた乱は「え」と顔を上げ、記憶を頼りに指折り数えてゆく。
 鶯丸は、得体の知れない胸騒ぎを覚えた。背筋を駆け上がる、ある種の恐怖にも似た一瞬のそれ。
 彼らは、なにかを捜していた。同じ時代に留まり続けたわけではないのに、攻撃対象となった本丸。第一部隊にいた御手杵と蛍丸はともかくとして、岩融と今剣には目もくれない様子。執拗に攻撃を受けた近侍。それだけでは飽き足らずに、なにかを捜す、彼ら――。
「主。明日は政府機関へ行くんでしょ? 流石に薬研は休ませないと」
「うん……」
 顔色の冴えない彼女を慰めるように、加州はそっとブランケットをその華奢な肩に掛けた。ふわりとしたあたたかさと、ほっとする飲み物。茶を口に含んで少し気分が落ち着いたのか、彼女は「そうだね」と小さく頷いた。
「明日の近侍だけど、」
「俺が行こう」
 どうしようか。そう口を開きかけた彼女の言葉を遮るように、鶯丸が言い切った。部屋に木霊する強い意思を持ったそれに、三振りと彼女は目を丸くする。
「だ、大丈夫? 万が一のことがあったら戦うんだよ?」
「お嬢……俺をなんだと思っている」
 誰よりも驚いていたのは彼女だった。肩を竦める鶯丸に、彼女は大きく首を横に振る。些か信じられないと言いたげな瞳に、流石の彼も呆れざるを得ない。
 それでもなお「良いのか」と念を押す彼女を宥めるように、燭台切は困ったような表情を浮かべた。
「薬研君の代理が決まったところでみんな、もうそろそろ休もう」
 はーい、と呟いた加州と乱が立ち上がった。再びの検非違使の襲来に備えて不寝の番を買って出た彼ら。そして明日の朝餉当番の燭台切も部屋を出て行ってしまうと、審神者部屋には鶯丸と彼女だけが残された。
 二人きりの空間は、少し五月蠅かった。いつまでも止まない耳鳴りに襲われ、煩わしいと思いながらも静けさを壊すことができない。不穏な沈黙が彼らを包み、ざわざわと心を急き立ててゆく。
 建具を閉めたというのに、ひやりとした早春の夜の空気が身体に纏わりついていた。
 小さく身震いする彼女に気づき、鶯丸は立ち上がった。このままでは埒があかない。いい加減、彼女を布団の中に押し込めなければ風邪を引かせてしまうだろう。
「俺も寝るか」
「待って!」
 部屋を出て行こうとする鶯丸の背中を追うように立ち上がった彼女が、古備前のジャージの裾を掴んだ。彼は素直に立ち止まったが、しかし、彼女は口を噤んだまま。それでもなにか言いたそうに背中を見つめ、睫毛を伏せる。
 背の低い彼女を見下ろし、鶯丸は口元に小さな笑みを浮かべた。幼い頃の、彼女の癖だ。強がりはぽんぽんと口に出すのに、本当に大事で伝えたいことや欲しいものは言葉にできないまま。そうして些細な後悔を重ねに重ねて、ひとりきりになったときにめそめそと落ち込むのだ。そういう彼女の姿を、彼は幾度となく見てきたのだ。
「……一緒に寝るか」
「!」
 勢いよく顔を上げた彼女の表情がにわかに明るくなる。かと思いきや、はた、と気づいたように目を見開き赤面する。「だいじょうぶ、なんでもない」といよいよ俯く姿に、とうとう鶯丸は吹き出した。
「は、」
「だっ、だって……っ」
 今朝、年頃の女性の部屋に云々と散々文句をつけたばかりで決まり悪いのだろう。その思考など、手に取るようにわかる。
 耳まで真っ赤に染めながらも己のジャージを掴んで離さない彼女に、鶯丸の頬が自然と緩む。彼はおもむろに振り返ると彼女を横抱きにし、部屋の隅の布団へと転がした。いきなりモノのように扱われた彼女は「ふぎゃ」と潰れたような悲鳴を上げるが、文句を言う暇いとまさえない。
 部屋の電気を消した鶯丸は、彼女の返事さえ待たない。真っ暗闇の中、彼は流れるような所作で彼女の隣へ身体を横たえた。そして二人の肩まで毛布を掛けたのち、その小さく柔らかい身体を、抱き枕のように強く抱きしめた。
「う、うぐ……っ!?」
「大丈夫だ」
「でっ、でも」
「いい。――泣け」
 彼の腕の中でじたばたと暴れていた彼女が、その一言にぴたりと動きを止めた。
 とん、とん、と速い鼓動に合わせ、彼女の背中を叩く。それは張り詰めた彼女の心にじんわりと溶けて広がり、今にも割れそうな薄氷を溶かしてゆく。
 鶯丸がしばらくそうしていると、やがて腕の中の彼女の肩が小刻みに震えはじめた。
「……っ、っく……」
「大丈夫。お嬢、大丈夫だ」
 夜目が利かぬと言えども、少しすればある程度は馴染む。静まりかえる本丸内の異様な雰囲気に、自然と耳が些細な音まで拾おうとする。それがごうごうと、まるで濁流のように流れる耳鳴りを引き起こす。
 その中で微かに聞こえる、彼女の嗚咽。己に抱かれながら張り裂けそうな心を必死に押さえ込む、少女から女性へと変わる齢の彼女。その確かな体温を感じながら、鶯丸は繰り返し「大丈夫だ」と唱えた。それはまるで、彼女だけではなく己へも言い聞かせているかのようだった。
 深々と更けていく夜半の刻。やがて腕の中で微かに聞こえてきた寝息に胸をなで下ろしつつも、鶯丸の目はいつまでも冴えていた。

その四

「――これにて、失礼いたします」
 重厚な扉が大きな音を立てた。扉の向こう側に消えてゆく空間の誰に向けるわけではないというのに、律儀に頭を下げながら全て閉じられるのを待つ彼女。流石に、パーカーとジーンズではなく、スーツ姿である。
「なに」
「いや。お嬢もちゃんと時と場所は弁えるのだと思ってな」
「失礼な!」
 彼女から一歩引いていた鶯丸が感心したように呟くと、踵を返した彼女の拳が彼の腹に綺麗に入った。
『貴重な事例の報告、感謝する。政府機関で引き続き、調査を進めよう』
 直接事の顛末を報告に赴いた彼女に対し、時の政府の役人は泰然としていた。
 もう少し驚いても良いだろうに。鶯丸は内心首を傾げるものの、特に蔑ろにされているような印象はない。彼女の報告に対し、始終「そうですか」と淡々と頷く役人たちの態度に釈然としないまま、鶯丸は廊下を進む彼女の隣に足を進めた。
「なんか、拍子抜けだったなぁ」
「お嬢もそう思うか」
 臙脂色の絨毯が敷かれた幅広の廊下には窓がない。一定間隔に設置された燭台に灯る仄暗い明かりだけが、二人の足下の頼りだ。彼らが進む先は、暗闇の奥深くまで延々と続くように見える。燭台にぼんやりと照らし出された古い油絵が不気味に見守る廊下を、二人は言葉少なに歩いてゆく。
「うん。なんだろう……私、小さいときからここに通っているし面倒も見てもらっているけれど……」
 言い淀む彼女の横顔が、心なしか少し曇ったように見える。鶯丸は小さく頷いて、彼女の次の言葉を待った。
「なんか、こう……まるで、前から知っていたような」
「知っていた?」
「……検非違使が、本丸内に現れること」
 口元に手を当てて考え込む彼女が、何気なくぽつりと呟いたときだった。
「う……」
「うぐさん?」
 鶯丸は、後頭部を強く殴られたような衝撃に襲われた。血管が破裂したのではと思えてしまうほど、どくどくと脈を打つ感覚。それが次第に頭部全体へと広がり、強い痛みとなって割れんばかりに襲いかかる。
 思わず頭を抱えて立ち止まると、彼の様子に気づいた彼女も立ち止まった。
「き……にするな……少し、頭痛がするだけだ」
「少し……って、顔真っ青だよ!?」
 両手を当てて表情を覆い隠す鶯丸の額には、いつの間にか大量の汗が滲んでいる。彼女は目を見開き、おろおろしながら辺りを見渡した。
「ちょっとどこかで休もう? 私、お水もらってくるから……あっ、いいところに!」
 収まるどころか、昨日の比ではない程に強烈な痛みを催している。彼女が、前屈みになる鶯丸の背を撫でながら彼を廊下の端に誘導しようとしたときだった。
 かつかつと、床を叩くような足音が聞こえてきた。眼を凝らした彼女がようやく見たものは、金線の階級章が入った濃紺の軍服を身に纏う初老の男性。もう一人影が見えたのだが、人の姿を目に止めた途端、彼女は「天の助け」とばかりに大きく声を張り上げた。
「すみません! あの、近侍が少し気分が優れないようで……」
「ん……? それはいかん」
「ぐ……っ」
 彼女の姿を見つけた軍服の男が近寄ってきた瞬間、鶯丸は胸の奥が熱く焼け爛れるような感覚に襲われた。
「!? う、鶯丸! どうしたの、ねえっ!?」
 必死に叫ぶ彼女の声すら、どこか遠くで泣き喚く赤子のようにしか思えない。なんと名付けて良いかもわからない、煮えたぎるようなそれは怒りにも似た感情。狂乱を抑えようとすればするほどに息が詰まってゆく。
「手を貸そう、一旦救護室へ――」
 鶯丸の目の前に差し出された、肉刺だらけの硬い、大きな掌。身を焼くような苦しさに歯を食いしばり、その手の平に顔を上げたときだった。
「……!!」
「お前は……!」
 初めて、軍服姿の男と眼が合う瞬間だった。
 皺の寄った強面の顔を驚愕の色に染める男の唇が「うぐいすまる」と呟くよりも先。
 鶯丸の腰元に吊り下げられた本体。左手の親指が鍔を弾く。その鎺が燭台の明かりを受け、ぎらりと鈍く光った。

鶯語り

 陽は高く上がり、春の陽気が穏やかな風を暖める。
 お嬢がいたら、さぞかし良い昼寝日よりだと喜んだことだろう。
 薄く笑った鶯丸が口元から湯吞みを離し、座卓の上に置いた。翁は彼の手元にあった急須を傾け、些か濃くなった茶を鶯丸の湯吞みに注ぎ足した。
「悪いな。渋くなってしまったかもしれん」
「頂戴する」
 構わないさ、と言いつつ口に含んだそれは、思った以上に濃くなっていた。それでも、最後の味だと思えばこそ、美味に感じられた。
「して。そのときに全て、思い出したと」
 あのときのお前の迫力と言ったらないな。そうくすくすと笑う三日月に、鶯丸は「ああ」と片眉を吊り上げた。
「まさか、俺の記憶を改ざんするとはなぁ。人の子如きが」
 瞬間、それまで和やかだった空気が鋭く張り詰めたものへと変わった。
 彼の強い鶯色が、背筋を伸ばした翁を射殺すように捕らえて離さない。見つめ続ければ、まるで魂ごと持って行かれそうな光。皺が刻まれた翁の太い首で、喉仏が大きく動いた。
「こら。俺の主を威嚇しないでもらいたい」
 話を進めるのもこの一振りなら、場を作るのもこの一振りだ。間延びした、それでいて強く牽制する、三日月の浮かぶ瞳。細められた硝子のように透き通った双眸を暫く眺めたあと、鶯丸は淡い笑みを浮かべて小さく息を吐いた。
「そうだな。すまなかった」
 この茶は旨いぞと鶯丸が笑うと、金縛りが解けたかのように審神者部屋の刻が動きはじめる。
 ばつの悪そうな表情を浮かべた翁は、眉間に皺を寄せて頭を垂れた。
「……言い訳はしない」
「構わんさ。俺の記憶が戻ったのもお前が切欠だ。お前と初めて顔を合わせたときに、俺の記憶は塗り替えられた……あれからたった二十余年」
 そう言うと、鶯丸は中庭の梅の木を見つめた。毎年変わらず綺麗な花を咲かせる季節は終わり、次の花へと命を繋ぐ。その営みがとても眩しく貴重なものに感じられるようになったのは、彼女と出会ったからこそなのだ。
「お嬢は俺の主ではない。俺が主と認めたのは、後にも先にもあの男一人だけだ」
 耳を澄ませば懐かしい声が聞こえるような気がして、鶯丸はそっと瞳を閉じる。しかし、いくら彼女へ想いを馳せたところで、彼の頬を悪戯に撫でるのは彼女の柔らかい掌ではなく、彼女が愛した春のそよ風だけだった。

その五

「やめておけ」
 柄にかけた右手を、鶯丸はそれ以上動かすことができなかった。
 彼の本体の柄の先を片手で押さえこんだのは、状況に似つかわしくないのんびりとした声色。鶯丸と男の間に割り込んだのは、男の近侍――三日月宗近だった。即座に構えて抜刀しようとした鶯丸を諫める、一見穏やかそうに見える瞳。その奥では、鋭い光が爛々と輝いていた。
「う、ぐいす……?」
「……お嬢、下がっていろ」
 しかし、それはこの刀もそうだ。鋭い縦長の瞳孔で光をぎらりと放つ姿は、彼女ですら見たことがない。それはさながら獲物を捕らえる鷹のよう。その場に居る者の肌が痺れるような気迫に、人の子らの足は竦む。
 吐き捨てるように笑う、冷酷な双眸。縁側でのんびりと茶を啜る普段の彼からは、想像できないほどの威圧感である。三日月の背後で固まる男から視線を逸らそうとはしない鶯丸に、彼女は固唾を飲む。
 そんな周りを余所に、鶯丸は三日月に退くよう、顎先を小さく向けて指図した。
「全て思い出したぞ。退け、三日月。その男だけは許せない」
「断る、と言ったら?」
 三日月は微笑んだまま、片眉をぴくりと動かした。それでも動じることはなく、鶯丸も小さく首を横に振る。
「――殺すのは、好きではないのだが」
「ふむ……仕方がないか」
 それまで顔色一つ変えなかった三日月が「経緯は知らんが、降りかかる火の粉は」と一歩飛び下がり、自身の柄に手を添えたときだった。
 鶯丸と三日月の間に割って入ったのは、両手を広げて立ち塞がる小さな背中。ようやく足が動いた、彼女の身体は小さく震えている。
「……お嬢」
「お……っ、お引き留めして申し訳ありませんでした! 鶯丸の非礼は私が詫びます、だから、」
「お嬢!」
 果てしなく続く廊下の空間をも震わせるような鶯丸の怒声が響く。
 彼女にとって、初めてだった。鶯丸が叱りつけるように大声を上げる姿も、激高を隠さずに取り乱す姿も。彼が男へ向けるのは、明らかな憎悪。ぞわりと背筋を駆け上がる寒気は身震いとなり、振り返った彼女は取り繕う言葉を失った。
「う、ぐ……」
「止めてくれるな」
 眼光炯々、口端を吊り上げて笑う鶯丸は、深く深く息を吐いた。
「その男は、お嬢の父親――俺の主の敵かたきだ」
「……えっ……?」
 鶯丸の言葉に、彼女は耳を疑った。彼の唇から滑り落ちた「主」という単語。そして鶯丸曰く、それは彼女自身の「父親」であるという。確かに、鶯丸が「主」と呼んだことは彼女の記憶の限り一度たりともない。
お嬢。物心ついたときから一緒に暮らした彼は、彼女のことをそう呼んでいた。
「ま……えっ? ど、どういうこと?」
「――確かに、そう思われても致し方ない」
 動揺を隠せずに鶯丸に詰め寄る彼女の背後から、嗄れた声が聞こえた。それまで黙っていた男は、三日月の肩に手を掛けて下がるよう命じ、そっと彼女の側へ歩み寄る。
 すかさず右手で彼女を自身の背後へ隠した鶯丸は、笑みこそ浮かべていたものの今にも噛みつかんばかりの勢いで首を横に振った。
「言っただろう。殺しは好きではないと」
「……少し、彼女の顔が見たかっただけだ」
「待って、鶯丸」
 己を匿おうとする鶯丸の腕を掴んだまま、彼女は一歩前に出た。眉を顰めた初老の男は、近づいてみると思いのほか体格が良い。睨みつけるように見下ろされた彼女は少し怯んだ。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。唇を噛みしめ、鶯丸の二の腕を掴む両手に力を込めて踏ん張った。
「あなたは私の父をご存知なのですか。その、この、鶯丸のことも……」
「……お嬢」
 彼女の言葉に一瞬びくりと肩を跳ねさせた鶯丸は、ゆっくりと自身の本体の柄から右手を離した。我に返った、とでも言うべきか。その瞳からは先ほどの嫌厭はとうに消え去り、代わりに困惑の色が広がっていた。
「お嬢さんは、自分の生い立ちに疑問を感じたことはないのかね」
「!」
 男の問いかけに大きく反応したのは彼女ではなく、鶯丸だった。彼女が掴む、彼の腕が心なしか小さく震えている。何故かその腕を離してはいけないような焦燥に駆られた彼女は、彼を掴む己の両手に力を込めた。
「母は私が赤子の頃に事故死。唯一の肉親である父は私と同じ審神者で、同じ頃に殉職したと伺っています」
 それ以上は知らない。政府機関の役人はみな口を噤む。そうきっぱりと答えた彼女は、迷う素振りすら見せない。
 鶯丸の腕に自分の腕を絡めるようにして引き寄せ、彼女は眉間に皺を寄せた。
「誰がなんと言おうと、この鶯丸は私の刀です。幼くして天涯孤独になってしまった私を不憫に思った政府機関の職員が与えてくれた、私の大事な初期刀です」
 凜とした声が薄暗い廊下へ響き渡る。それは男に対してだけではない。まるで、彼女の隣にいる鶯丸自身へと向けたメッセージそのもの。揺るぎない彼女の意思が、鶯丸の心を大きく揺さぶった。
 彼女の瞳を暫くまじまじと見つめた男が小さく息を吐く。細められた瞳の奥で揺れる光に気づいた彼女は、「ん」と小さく喉を鳴らした。
「真実が知りたかったら、その鶯丸に聞くといい。彼とて全てを把握しているわけではないと思うが」
 そう言うと、男は彼の背後で黙って成りゆきを見守っていた三日月に目配せをした。「あいわかった」と頷いた三日月はばさりと狩衣を翻し、警戒を解く。
 途端に緊張が抜けたのは、彼女の方だ。目の前の男ばかりではない。彼の背後で目を光らせる美しい天下五剣が一振りの強い牽制の眼差しから解放され、深く息を吐く。
「彼は、お嬢さんが知りたいことくらいは答えてくれるだろう」
「あ……っ」
 制帽を取って会釈をした男に、慌てて彼女もぺこりと頭を下げた。
「すまなかったなぁ」
「いっ、いえ……! こちらこそ」
 さして悪びれもせずにこにこと笑う三日月に、彼女は首を横に振る。「お前の近侍は血の気が多いな」と揶揄混じりの世間話をはじめる三日月の隣に男が立ち、素早く鶯丸に耳打ちをした。
「どうして彼女の本丸に検非違使が出現したのか、記憶が戻った君にはわかるだろう」
「……!」
 ぼそりと落とされた諷喩に、鶯丸は目を見開いた。
 合戦場ではなく本丸に現れた検非違使。執拗に狙われた、彼女に近い刀たち。なにかを捜していた、という素振り。
 そして、「二十年」という年月。
 錦眼鏡の中に散らばる様々な色玉の破片がくるくると形を変えて、隠れた真実を暴いてゆく。
 全身の血が沸き上がり、毛が逆立つような得も言われぬ恐怖に、鶯丸はごくりと唾を飲みこんだ。乾いた喉が悲鳴を上げ、焼けるような痛みを帯びて流れてゆく。
「――まさか、検非違使の目的は」
「その子を守ってやれるのは君だけだ。……私からも頼む、」
 救ってやってくれ。鶯丸の肩に置かれた、彼が「主の敵だ」と称した男の力強い大きな手。男と三日月が去り、彼女と鶯丸が取り残されてもなお、彼の肩にはその手の平の感触が熱く残っていた。

その六

 太陽が西に傾きはじめた頃。鶯丸と彼女は無言のまま、政府機関の広大な敷地にある庭園の芝生を歩いていた。
 そよ風が湖面を波立たせ、樹木を揺らして通り抜けていく。肌をも撫でるそれは随分と、冷たくなっていた。政府機関へ到着したときには穏やかに降り注いでいた寂光は、いつの間にか灰色の雲に覆われている。
「降りそうだね」
「ああ」
「……傘ないし、早く帰ろうか」
「……ああ」
 泣き出しそうな空の色。彼女は彼の横で淡く微笑んでいるはずなのに。今にも零れ出しそうな空の涙と彼女の横顔が重なり、彼の心に翳りを落としていく。
『真実が知りたかったら、その鶯丸に聞くといい』
 つい数十分前のことだ。男は確かに彼女にそう言った。だが、どうだ。三日月を連れた男と別れてからの彼女は、一切その話題には触れようとしない。唯一「頭痛は平気か」とだけ尋ねたものの、彼が首を縦に振ってしまえばそれっきりだった。
 気にならないはずがないだろうに。ちらりと彼女を盗み見た鶯丸は、「おなかすいちゃったね」と独り言のように呟く彼女に曖昧な返事をした。
 やがて、庭園内の数カ所のガゼボに設置された転送ゲートにたどり着いた。脇に設置された大きなダイヤル。それで本丸が存在する空間の番号を指定すると、空間がつながる構造になっている。彼女がそのダイヤルに手を伸ばしたとき、鶯丸は背後からそっとその細い指先に自身の掌を重ねた。
「さっきのことだが」
 びくり、と彼女の肩が跳ねた。
「知りたいか。父親のこと」
 きっと、己が切り出さなければこのまま彼女はなにも尋ねてこないだろう。八つ時の菓子はしつこく知りたがるくせに、肝心なときはいつもそうだ。尻込みしているのか、気を回し過ぎているのか。
 どうやって切り出すか、考えがあったわけではない。だが、この先ゲートをくぐってしまえば、彼女と二人で話せる時間は少なくなってしまう。
 後先を考えずに切り出した鶯丸を救うように、彼女は首を傾げてふざけて見せた。
「話すかどうか迷ってるって、顔に書いてある。ずるい。私に委ねるなんて」
 彼が彼女の手を握りしめると、彼女は淡く微笑んだ。
 時折こうして、彼女は少し大人びた表情を見せる。胸の奥にじんわりとした暖かい気持ちが生まれ、彼の首を横に振らせようとする。
 しかし、歴史・・はそれを許さない。
 彼は自身の冷たい手の平によりいっそうの力を込めて、彼女を引き寄せた。すっぽりと腕の中に入ってしまう身体から伝わる、生きた鼓動。体温。呼吸。
 ああ、確かに彼女はここにいる。
 顔を真っ赤にしてじたばたともがく彼女の額に唇を寄せ、鶯丸は彼女の頭に顎を置いた。
「話したい、というよりは、話さなければならない。これは他ならないお嬢にとって重要なことだ」
「私に?」
「ああ。……だが、俺が今から話すことは確実にお嬢を傷つける」
 彼女を掻き抱く腕に力を入れる。スーツを身に纏う華奢な肩幅に少しだけ不安を感じた彼は、左手で抱きしめたまま、彼女の後頭部に右手を這わす。囲って、決して消えてしまわないように。
 ぽつり、と音がした。続けて、ぱたぱたと落ちはじめる滴。尖った屋根付きのガゼボの中では濡れることはないが、板を叩くような音は次第に強くなり、芝生をしっとりと濡らしていく。
「……私は、うぐさんが私の隣に居てくれるならなんでもいい」
 震えていたのは彼の方だった。鶯丸の背に添えられた暖かな彼女の手が、とんとんと彼の背中を慰める。
 迷っているのは、俺か。怯えているのも、俺か。
 鶯丸は深く息を吸い込み、彼女の頭を撫でた。
「なにから話すか……そうだな。まずは俺の主――お嬢の父親のことから」
「待って」
 彼女の肩を抱くように、ガゼボ内に設置されたベンチへ腰掛ける。鶯丸が彼女の髪を梳いて口を開くと、彼女は彼を見上げて瞳を揺らした。
「少し、いやな予感がして」
 零れた不安が、静かな庭園に小さく溶けた。それが鶯丸の心にだけは僅かに残って、突き刺さる。
 しばらく見つめあった後、鶯丸は彼女の頬を両手で挟んだ。湿った土の香りが二人の鼻腔をくすぐる。自然と重なった二人の唇から漏れる吐息が白く燻って、消える。
 二人の世界に、春時雨が広がってゆく。