序幕
幾度となく巡ってきた季節の中で、これほどまでに悲しい春はあっただろうか。
廊下を走り抜ける足音。それを諫める威厳ある姿。鍛錬に励む者。帰還した男士を出迎える歓声。夕餉を拵 える者たちの忙しない影。
まるで夢のようだ、と、鶯丸は口元に薄く笑みを浮かべた。瞳を閉じれば聞こえる、雀の囀 り。遠い山野で流れ落ちる雪解け。開け放した縁側を軽やかに駆けて頬を撫でる東風。耳を欹 てずとも聞こえる、自然の声。
生命の芽吹く時季は喜びで溢れかえっていたはずの場所。大所帯だった本丸も、今はただ、新しい季節の到来を受け入れるのみ。
昔の面影に想いを馳せて、彼はそっと顔を上げた。
「本当に、良いんだな」
静まりかえる本丸に、低く嗄 れた声がぽつんと浮いた。中庭に面した審神者部屋で、色褪せた座卓を挟んで対面に座るのは、水干と袴を身に纏う初老の男性。還暦を越えた翁のその顔は険しく、多くの皺が刻まれていた。
「ああ。皆を宜しく頼む」
「そうではない。私は、お前の」
「なあ、鶯丸よ」
――そして、翁の隣に座して微笑むのは鮮やかな紺色の狩衣。翁の声を遮って、穏やかで強い声音を響かせる。
鶯丸はまだ熱い湯吞みの茶を啜り、目を伏せた。
「なんだ。三日月宗近」
「折角だ。最期に昔話をしてはくれまいか」
人の子で言うところの「冥土の土産」だな、と笑う三日月に、鶯丸は顔を上げてひとつ、瞬きをした。
「逆だろう」
「細かいことは気にするな、ではないのか」
有無を言わさぬ威圧感。首を横に振らせようとしない異様な圧力。そのあまりにも奔放な振る舞いに、鶯丸は「お前の近侍は一体どうなっているんだ」とばかりに翁を横目でじろりと睨んだ。
だがしかし、だ。
「私からも、頼む」
本来諫める立場にあるはずの翁は、あろうことか神妙な面持ちのまま小さく頭を下げた。
「これはこれは……」
暫く思案したあと、鶯丸は小さく溜息をついた。断固たる決意の表れであるかの如く頑なに頭を上げようとしない翁に、微笑みを絶やさない圧倒的な存在感を放つ天下五剣が一振り。拒否したところで、目の前の御仁等は引き下がるはずもないだろう。
致し方ない、と、腹を括ったらしい。覚悟を決めた形の良い唇を、彼は僅かに吊り上げた。その瞳の鶯色は、静かな悲しみと深い後悔、そして僅かな幸福に揺れ、爛々と輝いていた。
「――拝命した。この本丸随一の古株である友成が一振り、鶯丸が語る。刀解前の太刀の戯言と思って、静聴してくれ」
幾度となく巡ってきた季節の中で、これほどまでに悲しい春はあっただろうか。
廊下を走り抜ける足音。それを諫める威厳ある姿。鍛錬に励む者。帰還した男士を出迎える歓声。夕餉を
まるで夢のようだ、と、鶯丸は口元に薄く笑みを浮かべた。瞳を閉じれば聞こえる、雀の
生命の芽吹く時季は喜びで溢れかえっていたはずの場所。大所帯だった本丸も、今はただ、新しい季節の到来を受け入れるのみ。
昔の面影に想いを馳せて、彼はそっと顔を上げた。
「本当に、良いんだな」
静まりかえる本丸に、低く
「ああ。皆を宜しく頼む」
「そうではない。私は、お前の」
「なあ、鶯丸よ」
――そして、翁の隣に座して微笑むのは鮮やかな紺色の狩衣。翁の声を遮って、穏やかで強い声音を響かせる。
鶯丸はまだ熱い湯吞みの茶を啜り、目を伏せた。
「なんだ。三日月宗近」
「折角だ。最期に昔話をしてはくれまいか」
人の子で言うところの「冥土の土産」だな、と笑う三日月に、鶯丸は顔を上げてひとつ、瞬きをした。
「逆だろう」
「細かいことは気にするな、ではないのか」
有無を言わさぬ威圧感。首を横に振らせようとしない異様な圧力。そのあまりにも奔放な振る舞いに、鶯丸は「お前の近侍は一体どうなっているんだ」とばかりに翁を横目でじろりと睨んだ。
だがしかし、だ。
「私からも、頼む」
本来諫める立場にあるはずの翁は、あろうことか神妙な面持ちのまま小さく頭を下げた。
「これはこれは……」
暫く思案したあと、鶯丸は小さく溜息をついた。断固たる決意の表れであるかの如く頑なに頭を上げようとしない翁に、微笑みを絶やさない圧倒的な存在感を放つ天下五剣が一振り。拒否したところで、目の前の御仁等は引き下がるはずもないだろう。
致し方ない、と、腹を括ったらしい。覚悟を決めた形の良い唇を、彼は僅かに吊り上げた。その瞳の鶯色は、静かな悲しみと深い後悔、そして僅かな幸福に揺れ、爛々と輝いていた。
「――拝命した。この本丸随一の古株である友成が一振り、鶯丸が語る。刀解前の太刀の戯言と思って、静聴してくれ」